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  作文文化を作る(4)
  読書の秋、本と仲良くなりましょう(スズラン/おだ先生)
  メヂカラ(はつこ/そうよ先生)
  「文系でもこわくない物理」(うさぎ/きら先生)
  音には色がある?!(ほたる/ほた先生)
  大切な基礎学力(りょんこ/よお先生)
 
言葉の森新聞 2005年11月2週号 通算第910号
文責 中根克明(森川林)

作文文化を作る(4)
 教育の目的のうち、創造を主に作文的なものが担い、向上を主に読書的なものが担います。幸福は、これから生まれる、心身についての新たな教育の守備範囲となり、貢献は、やはりこれから生まれる、技術と芸術を統合した新しい工学の教育の守備範囲となるでしょう。

 このような有機的なつながりを持った教育全体の中で、作文と読書を考えていくことが私たちの課題です。そのビジョンは、作文文化という言葉で表されます。具体的には、勇気と知性と愛に満ちた多くの長文を読むことによって自己を向上させるとともに、その向上の土台の上に作文による創造を行うということです。従来の教育の中心は、与えられた答えをいかに早く見つけるかということでした。新しい教育は、答えを見つけることではなく、その先にある、答えのない世界を創造することが中心になります。これまでの教育は、十人いても百人いても、正しい答えは一つでした。これからの教育は十人いれば十人の答えがあるという創造的な教育です。

 そのような教育は、学校という限定された場所で、勉強という限定された時間に達成されるものではありません。社会という限定されない場所で、人生という限定されない時間に、生活の一部として達成され続けるものです。だから、これは作文教育というよりも、作文文化という名称がふさわしいのです。

 文化に必要な要素は、娯楽性、芸術性、超越性です。娯楽性とは、楽しい要素があるということです。芸術性とは、美しい要素があるということです。超越性とは、他では代替できない新しい創造的な要素があるということです。作文文化において、この三つの要素を育てていくことが今後の課題です。(完)
読書の秋、本と仲良くなりましょう(スズラン/おだ先生)

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、実りの秋、何をしても快適な季節になりましたね。
おいしい物がたくさん店頭にならび、食欲の秋に引き込まれそうですが、言葉の森で勉強をする私たちには、やっぱり「読書の秋」のイメージを一番にしたいところです。
 皆さんは読書が好きで、いろいろ楽しい本を読んでいるようですから、いまさら、本と仲良くなりましょうと言わなくてもいいのですが、10月27日から読書週間も始まりますので、今月は本を読む楽しみを、詩人の長田 弘さんの詩をとおしてお伝えしたいと思います。
 本を読む楽しさは、何と言っても、いろいろな未知の世界が見えている時間だからのような気がします。そして、身近にある全てのものが、本を読むのと同じように感動を与えてくれている、そんな気持ちを優しい言葉で伝えてくれている詩だと思います。
 
「世界は一冊の本」  長田 弘  (長い詩なので、残念ですが中略します)   
   
 本を読もう。
 もっと本を読もう。
 もっともっと本を読もう。
  
 書かれた文字だけが本ではない。
 日の光り、星の瞬き、鳥の声、
 川の音だって、本なのだ。
 
 ブナの林の静けさも、
 ハナミズキの白い花々も、
 大きな孤独なケヤキの木も、本だ。

 本でないものはない。
 世界というのは開かれた本で、
 その本は見えない言葉で書かれている。

 中略
 
 草原、雲、そして風。
 黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
 権威をもたない尊厳が、すべてだ。

 200億光年のなかの小さな星。
 どんなことでもない。生きるとは、
 考えることができるということだ。

 本を読もう。
 もっと本を読もう。
 もっともっと本を読もう。

 この詩を読んだとき、本を読むことは、本当にたくさんのものを教えてくれているということを実感しました。身の回りにあるもの全てからさまざまな感覚を受け取り、心の中でそれを育て、生きるための力と勇気を自分のものにしていきたいという思いが伝わってきました。本の中の世界、目に見えている世界、いずれも、私たちは好奇心と観察力で自分の中に取り込んでみたいですね。読書をすることで未知の世界を知り、実際の場に活用し、世界を広げていきたいものです。秋の夜長、本と友達になりましょう。
メヂカラ(はつこ/そうよ先生)
 前回の学級通信では、飼っていたスズムシのお話をしました。成虫はオスメスともにその役割を終えて死んでしまいましたが、卵はちゃんと確認できます。この卵が無事かえるかは来年までのお楽しみ。見守っていきたいと思います。

 「みまもる」という動詞は、私のお気に入りの言葉のひとつです。ま、み、も、とマ行の音から主に構成されていて、声にだして言ってみると、やわらかくて丸みのある、やさしいひびきがするでしょう?
 
 現代では「じっと見つめる」とか、「見て番をする」ことを「見守る」といいますが、昔の言葉、古語では、「まもる」といっていました。「見(み)」がないのです。古語「まもる」の「ま」は「目」を意味します。まつげ、まなじり、まぶた、まなこ・・・ね、現在の言葉でも目に関係することばには「ま(目)」が使われているでしょう?「もる」は「守る」の意。古語の「まもる」は「目」+「守る」の意味が入っていたのです。目で守る、ということですね。そうなると現代語の「見守る」は、「見る」+「目」+「守る」の三つの要素から構成される言葉といえます。見る目、目で見るという意味が「見守る」の中に深く入っていることが分かりますね。

 アゲハやスズムシのことを学級通信に書くために、いつでも虫を見られるよう、飼育ケースをすぐ隣においておきました。虫の動きがおもしろくて、つい見とれてしまって書く手が止まることももちろんありましたが、見つめながらこれまでの生き物の成長の過程を思い出したり、現在の様子をどうやって文字で伝えるかをうんうんと考えていました。
 先生はこの経験を通して「書くこと」と「見ること」は切り離せない行為であることが分かりました。書くためにはまず見ることが必要です。しかもただ「見る」だけでなく「じっと見る」ことが大切だなと思いました。物事をじっと見つめる根気、見守っていく忍耐力があれば、分かってくることがたくさんあるのですね。そしてたくさん分かるととても楽しい!
 書きたい題材(書かなければならない題材)が決まったら、そのことをつぶさに見つめて、過去も見つめて克明に思い出してみましょう。作文には眼力(メヂカラ)!覚えておいてくださいね。
「文系でもこわくない物理」(うさぎ/きら先生)
 秋が深まってきました。みなさんはどんな秋を実感していますか?

 今年は、夏から「文系でもこわくない物理」といったテーマの本に挑戦しています。というのも、今年、2005年は世界物理年だからです。1905年、アインシュタインは現代物理学へのジャンプ台となった五つの画期的論文を次々と発表し、この年は物理学にとって「奇跡の年」と呼ばれることになりました。百周年に当たる2005年は、国連総会で「物理の国際年」とされ、世界各地で「世界物理年」の行事が繰り広げられます。記念すべき年なのです。さらに私事としては、夏休みの子どもの自由研究に助言してやりたいという目論見もありました。(ところが、なかなか読み進みません。(^^ゞ )
 私は根っからの文系で、とくに数学は困難を極めましたが、高校時代、物理の時間だけは目を輝かせて臨んだことを覚えています。実験から公式を導く事が楽しくて、その時だけは計算も進んで出来ました。大学でも一般教養ではありますが、物理を選んだほどでした。科学と文学、じつはそう遠くないと感じました。
 
 読んでいる本からの抜粋ですが、深く共感するものをご紹介します。

「科学に真面目に従事している誰もが、自然の法則が、人間をはるかに超えた精神、つまりその前では、人間は自分の力を過信することなく、謙虚に頭を下げねばならない精神を露にしているという確信に到達します。こうして科学の先入観は特殊な宗教的感情に導くのです。しかしながらそれは本質的にもっと素朴な人々の宗教性とは異なっています。」
「われわれが立ち入ることのできないなにものかが存在しているという知覚、きわめて深遠な理性やきわめて輝かしい美を感じ取る事。真の宗教性をかたちづくるのはこのような知覚であり、このような感覚である。」(ともに、アインシュタイン)

「科学を少しばかりかじると、人間の心は無神論に傾くが、科学を深く究めると有神論に傾く」

 私は、理系がだめなのと同じくらい宗教にも疎いわけですが、前記の言葉は、地球に住む者として心に響きます。科学の進歩とともに、私たちは人間によかれという目的でどんなことを行ってきたでしょうか。開発という名の自然破壊、資源の浪費、大量生産大量消費が招いた大量の廃棄物。そして生命の起こりにまで迫ろうとする科学技術。この事実をどう受け止めていくべきでしょうか。

「我々が”理性の視力”の次に持たねばならないのは”感性の視力”ではないかと思う。”感性の視力”なくしては真の自然(物質・宇宙・生命)を理解するのは不可能であろう。」(「こわくない物理学」志村史夫)

 中学、高校生のみなさんの、課題フォルダの長文のテーマに共通する部分がありますよね。科学の目で見る事、考える事が、人間の幸福を奪う方向に向かってはならないのです。地球の一員としての自分を感じていく視線こそが「感性の視力」なのではないでしょうか。
 
 世界物理年については http://www.wyp2005.jp/ にくわしくあります。その中の「物理チャレンジ2005」という高校生対象のオリンピックに、ともに言葉の森で学ぶ、A.L.くんが参加し、見事に奨励賞を受賞しました。おめでとうございます! A.L.くんの活躍も、私の理系への探究心を大きく後押ししてくれました。文系も理系もありません。知りたいものにぐいぐい近づいていく気持ちをいつまでも忘れないことですね。
             
                               きら
音には色がある?!(ほたる/ほた先生)


 みなさんの学校の運動会も、だいたい終わった頃です。中学生、高校生の皆さんは、文化祭やあるいは中間テストに取り組んでいる頃ですね。私の住んでいる長野県では、運動会は9月中に終わり、もう稲刈りも終わりました。わが家の小5の娘も今年、学校の田んぼで稲作りの授業をやっていましたので、稲刈りのあと干していた稲の脱穀にかかるところです。
 「実るほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」。秋になると、私の小学校の時の校長先生がいつも、朝礼でこう言っていたのを思い出します。「みなさんも、いっぱい勉強して、頭が重くなるくらい頭の中を実らせてください。」校長先生は、いつもこう話を締めくくりました。


 
【音には色がある?!】

 最近、新聞でおもしろい記事を見ました。それが、このタイトルです。生まれて間もない赤ちゃんは、音を聞かせると、脳の視覚情報の場所が活発に動いているのだそうです。これは、聴覚と視覚の二つの感覚がまだ分かれていない「共感覚」と呼ばれるもので、アメリカの研究では、赤ちゃんは触覚(さわった感じ)と視覚にも共感覚があるそうです。
 しかし、生後2ヵ月ほどで人間の脳は爆発的に発達していき、こういう共感覚は失われていくそうです。ですから、ほとんどの意識ある子どもも大人も、もう「音の色」を見ることはできないわけですね。ですが、ごくたまに、大人になるまでこの共感覚を持っている人がいるそうです。
 なんてすてきなことなんでしょう! と、思いませんか。その人が音楽を聴くと、色が見えるんです。オーケストラなんて、様々な色が混じり合い、変化し、それはもう豪華絢爛なタペストリーのような感じでしょうか。モーツァルトは、明るいお花畑みたいな感じかな。ベートーベンやバッハは、荘厳な古い教会みたいなシックな色かも。ショパンは、点描の細かい絵みたいなんじゃないかな。……などなど、勝手な想像がふくらんでしまいました。



 もう共感覚を持たない私達は、残念ながらこういった音の色を見ることはできません。しかし、その代わりに私達が手に入れたものがあります。そう、それが「言葉」です。私は今、「……みたいな」「……のような」とたくさん書きましたが、私達は言葉を通じて、そして脳の想像力によって、今目の前にない景色を見ることができます。光の暖かさを、風のそよぎを、感じることができます。
 これは、なんというすばらしい力でしょう。動物たちも、ある程度は仲間の間で情報を伝える手段を持っているでしょう。危険を知らせたり、えさのありかを知らせたりすることは、ミツバチのような昆虫でさえも上手に行っています。しかし、動物たちは、自分の過去の経験を詳しく仲間に伝えることはできません。「今朝食べた新しいドッグフードがおいしくてさあ」などということを、伝えられないのです。(もしかしたら伝えているのでしょうか? 人間にはわからないだけ?)
 みなさんは、言葉でしゃべることで、こういう経験を他人に伝えることができます。作文を書いて、日記を書いて残すことで、その出来事を、その感動を将来に残すこともできます。それは、とてもすごいことなんですよ。今書いている作文も、貴重な「今」の記録です。どんどん書いていきましょう。そして、「……みたいな」「……のような」というたとえもたくさん入れて、見えない景色をたくさん見せてくださいね。

大切な基礎学力(りょんこ/よお先生)
 学力を効率よく身に付けるには、どうすればよいでしょうか?
効率と聞くと短期間で習得するには?と考えてしまいがちですね。でも、学力や技能というものは、一朝一夕に身に付くものではありません。そういう考え方をしていると、結局遠回りしなければならなくなります。大切なのは、たっぷりと基礎学習の時間をとり、それから応用に進むことです。みなさんがこれから素晴らしい大木になるためには、まずしっかり「根」をはることが大切です。一生懸命土の中で「根」をはっている時期は、地上ではあまり変化は見られません。この期間は、がんばってもがんばってもテストの成績に反映されない時期です。でも、長い目で見ると基礎力をしっかりつけた子は、その後の伸びが目覚しいですよ。国語の読解力や作文力などは、すぐに身に付くものではありません。ひとりひとりのこれまでの読書体験に左右されます。

 大人になると自分が教わる立場にはなかなかなれないのですが、今習っている楽器の練習で、最近このことを実感しました。実は、私は器用貧乏(?)なたちで、習っているフルートは弦楽器などに比べると音の出し方や指使いが簡単ということもあり、あっという間に課題が進んでいきました。私はピアノのレッスン暦が長かったので、旋律だけのフルートの楽譜は読譜が楽で、初中級レベルならほとんど初見で吹けるのです。でも、先月から私の先生は、新しい課題に進むのを中断して、今までどおりの退屈な基礎練習の教本(ピアノのツェルニーのようなもの)に簡単な楽曲の教本を加えられました。つまり、難しいソロの曲に入る前にもっともっと地道な基礎練習をさせ、今のうちに苦手な箇所や変な「くせ」をしっかりつぶしておこうと考えていらっしゃるのでした。ちなみに楽曲の教本のほうは、気分転換のためだと思います。私は、この先生でよかったなぁと改めて感じました。

 みなさんの中でも、やる気のあるしっかりした人ほど、はやく先に進みたいと思うでしょうけれど、(この気持ち自体は、向上心があって素晴らしいと思います)、やはり一にも二にも基礎力が大切です。これは学力や楽器にかぎらずあらゆる技能を習得するために共通のことだと思います。これをおろそかにしていると、ある程度以上に達すると上達しないケースが出てきます。後は、もうみなさんご存知と思いますが、基礎力強化のためには、「短時間でも毎日必ずする」ことが何よりです。というわけで、私は、今日も退屈なスケールの練習をするつもりです。みなさんも、いろんなことにがんばりましょうね。(^o^)/
    
 
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