言葉の森新聞
2006年2月1週号 通算第921号
文責 中根克明(森川林) |
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■3月から銀行の自動振替日が変更します。 |
これまで、銀行からの受講料の自動振替は、毎月12日でした。 3月から、毎月27日の振替となります。 振替できなかった分は翌月に繰り越します。 |
■3月から郵便局からの自動振替1回だけに |
これまで、郵便局からの受講料の自動振替は、毎月6日と26日でした。 3月から、毎月15日の1回だけとなります。 振替できなかった分は翌月に繰り越します。 |
■スパイペンの返クラウン |
賞品のスパイペンのねじ山の部分が故障しやすい設計になっていたようですので、スパイペンを注文した人には、その分のクラウン数を戻しました。また新しい賞品を注文してください。 ほかにも、賞品の不具合がありましたらご連絡ください。 |
■公立中高一貫校入試で求められる記述力 |
公立中高一貫校の入試では、学力検査は行われず、作文、適正検査、面接などで合否が決まります。「環境をテーマにした文章を読み、自分の体験を交えて答える」など、身近なテーマで自分の考えを表現させる記述式問題が多いのが特徴です。書く力が最重要視されると言っても過言ではありません。いくら知識を持っていても、その知識や情報をもとに、自分で考え、文章として表現する力がなければ太刀打ちできない試験です。長い文章を書かせることで、本当に力のある子供を選びたいというのが学校側の意図するところなのです。 もちろん、文章を書く際の論理性や構成力も要求されます。そのためには、さまざまなテーマの文章を読み、それに対する自分の意見を、構成を考えながら、論理的に整理して書くという練習を積み重ねておくことが大切です。 言葉の森では、入試の5ヶ月前より、志望校の出題傾向に沿った課題で勉強する「受験コース」を選択することができますが、通常の課題をしっかり勉強しておけば、この作文入試に対応できる力は十分につくはずです。 |
■増える小論文入試 |
大学入試や入社試験でも小論文の試験を課すところが増えています。また、その配点も高いものになっています。 【小論文を課す大学(首都圏一部)】 東京大学 一橋大学 茨城大学 東京学芸大学 筑波大学 宇都宮大学 群馬大学 埼玉大学 千葉大学 お茶の水女子大学 東京芸術大学 東京工業大学 横浜国立大学 首都大学東京 横浜市立大学 慶應義塾大学 早稲田大学 上智大学 青山学院大学 東海大学 日本大学 法政大学 明治学院大学 文章を読んだり書いたりする力は、質の高い文章を読み、質の高いテーマを考えることによって長い時間をかけて身につくものです。普段から、社会や科学や人間について考えていなければ、即席で力をつけることはできません。小学生のうちから、身近なテーマについて親子で話し合ったり、長文を読んだりして考える力の土台を作っておくことが大切です。 学校のみならず、会社でも入社試験で文章力を重視するところが増えており、文章を読み、書き、考える力は、これからますます重要になってくると言えます。 |
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■知恵と勇気と熱いハートと(メルトン/うなぎ先生) |
今年は戌年ですね。犬と言えば、題材「昔話の実例」で活躍中の『桃太郎』が真っ先に思い浮かびます。桃太郎は犬、猿、キジを連れて鬼退治に出かけます。わたくし個人としましては、鬼退治のお供に犬、猿、キジとは、いささか頼りないと感じてしまうのです。もっと強くて戦いに有利な動物もいたはずですね。虎、オオカミ、ワシの組み合わせなど、なかなか良さそうではありませんか。あえて犬、猿、キジを選んだのには訳があるようです。 一説によると、これらの動物は「仁・智・勇」の象徴なのだそうです。 仁(犬)・・・利他愛・忠義 智(猿)・・・知恵 勇(キジ)・・・勇気 なるほど。桃太郎は腕力ではなく、知恵と勇気と熱いハートで勝負をして勝利を納めたということですね。改めてそのように考えると、身近な昔話も新鮮に感じられます。 また他の説として、方角が元になっているというものもあります。十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・「申・酉・戌」・亥)の申・酉・戌が猿とキジ(とり)と犬にあたるということです。鬼が島は鬼門とされる北東の丑(うし)・寅(とら)。鬼は牛の角を持ち、虎柄のしましまパンツを履いていますね。 この十二支を使い、子(ねずみ)を頂点にぐるりと円を描くと、北東の反対側にくるのが南西の申・酉・戌。それゆえこの2匹と1羽が鬼退治のメンバーになったそうです。 正しくは南西にあたるのは未(ひつじ)・申・酉です。しかし羊は気が優しく戦いを好まないため、一つずれて戌の出番となったという話があったとか、なかったとか。 おしまいに、ではなぜ人間を共に連れて行かなかったのか。人間をメンバーに選ぶとどうなるか、想像してみるのは楽しくもあり、恐ろしくもあります。『桃太郎』のパロディとしては芥川龍之介のものがありますが、まさに目を覆いたくなるような話の展開です。人間とはどのようなものか、桃太郎のお供は「仁・智・勇」ではなかったのか。機会があったら読んでみて下さい。 |
■それはあんたのさみしさであって、わたしのさみしさではない(けいこ/なら先生) |
今日(2006.1.10 )の朝日新聞朝刊の4コママンガ『ののちゃん』(作いしいひさいち)は、哲学的でした。主人公ののちゃんは、元気いっぱいの小学生(女の子)です。 1コマ目(母)なんでこっちを着ていかんのや。こんなに寒いのに。 (のの)それはおかあさんの寒さであって、わたしの寒さじゃないもん。 2コマ目(のの)行ってきまーす。 (母)…… 3コマ目(母)理屈を言うようになって……成長はうれしいけど、ちょっとさみしいなぁ。なぁ。 4コマ目(おばあさん)それはあんたのさみしさであって、わたしのさみしさではない。 (母)おかあちゃんかいな! 思いやることや人の立場になるというのは、決してやさしいことではありません。それはなぜなのか。「わたしの……ではないから」です。 私はつい最近母を亡くしました。そのことを知った友人数名から電話をもらいました。ある人とのやりとりの中で、私は少し傷つき、だんだん話しているのがつらくなって、言葉数が少なくなってきたのです。 「どういう病気だったの」 「長く入院していたの?」 「間に合わなかったの?」「さいごは、お姉さんだけ?」 一つ一つに答えていくうちに、どうしてこんなことを知りたがるのだろうと、いらだってしまいました。長い友人なので気心も知れているからといって、余りにも不躾な聞き方ではないかという思いがぬぐえないままで、何日か過ぎてしまいました。 私の悲しさは、その友人にはわからない。それはその友人の悲しさではないからだ。そして、友人の心配は、私にはわからない。それは私のものではないからだ。つまりは、そういうことなのでしょう。では、他人の思いはわからないままなのか。おそらくは、ずっとわからないでしょう。だけれど、だからこそ、わかろうとすることが必要なのかもと、ぼんやりと考えました。「こうなのではないか。」と想像することを放棄しては、今まで培ってきたものが崩れてしまうかもしれないのです。友人は、質問することで私の気持ちを理解しようとしたのかもしれませんが、私は、友人に思いをやることなく、一方的に気分を害していた、ということかもしれません。また、友人は、「こんなこと聞いたら、どう思うだろう。」と私の心を思いやる気持ちが少し欠けていたのかもしれません。 わからないけれど、わからないから、わかろうと努力する。これは、現実の人間関係においても、また、読書などにおいても、必要なのでしょうね。同じ人間ではない以上、完全に他人の気持ちを理解できることはありません。「私の意向とは異なるけれど、私のことを考えてくれた。」という実感を得られたときに、心は温かくなります。違う思い・違う感覚を持つ人だけれど、「それもありだな。」と思えると、ちょっぴり勇気が出てきます。 マンガの主人公ののちゃんは、今は「お母さん、うるさいなぁ。」と思っているかもしれませんが、そのうちに、「自分のことを心配してくれているお母さん」に思いをやることができるようになるでしょう。 |
■言葉の力(うるっち/かん先生) |
新しい年がスタートしましたね。みなさんそれぞれが新年の抱負を胸に秘め新しい年を迎えたことでしょう。今月の学級新聞は、新年の門出にふさわしく目標を掲げたみなさんを応援する内容にしようと知恵を絞ってみました。 先日読んだ本に大変興味深いことが書かれていました。簡単に説明すると次のようなお話になります。波動を研究しているあるチームがあらゆる条件下での水の結晶を顕微鏡でとらえたものを撮影して様々な検証をしているとのこと。そしてこんな結果を得ることができたのです。「愛・感謝」と書いた紙を貼った試験管から取り出した水の結晶の写真は大変緻密で美しいレースのような構成をしているそうです。それに反して「ムカつく・殺す」と書いた紙を貼り付けた試験管の水の結晶は不規則で醜くゆがみ、つぶれているんですって。もとは同じ水だというのにこのような違いが現れるなんてなんとも不思議なことだと思いませんか。同様に、植物を育てるときに「綺麗な花を咲かせてね」と声をかけるとすくすくと育つという話もよく耳にします。こうした話を聞くと言葉の発する力の偉大さをまざまざと見せつけられているような気がします。 言葉には言霊と呼ばれるエネルギーが宿っていて、大きな力を持っていると考えられています。日本人は昔からこの言霊の力を大変よく理解していたのですね。実生活において縁起の悪い言葉は忌み言葉として別な言葉に置きかえてみたり、またその逆に、言葉に縁起をかついだりしてきたのです。先人の見事な生活の知恵といえるでしょう。 みなさんの生活にも言葉の力を使うことができますよ。なにごとも「できない」といわないことです。言葉のエネルギーを借りて「私ならできる」「ぼくならできる」とポジティブに物事を考えてみるのです。もしも「やっぱりダメかも」と心が弱気になってきたとしても、口からは力強く「できる」と言葉を発するのです。目標をかなえる第一歩として「できない」は禁句にしてみることをオススメします。かくいう私も毎日自分に「私ならできる。がんばろう」と言い聞かせています。大人になると子どものころのように親が褒めてくれるわけではありません。だれにも褒めてもらえないのは寂しいものです。だから言葉のパワーを借りて自分で自分を奮い立たせているのです。(笑) |
■小梅流川柳(ごだい/ひら先生) |
「徒然なるままに書き散らした小梅日記をお聞きくださ〜い、♪チャカチャンチャンチャチャンチャチャンチャン♪」 目下のお気に入りは上記のフレーズで自虐ネタを披露する小梅太夫(こうめだゆう)。 たぶん、おじさんと思われる方がべったり白塗りし、着物姿で小唄調にネタを披露します。ビジュアルは、「こわいもけどもう一度見たくなるような」なかなかのインパクトです。(志村けんさん扮するバカ殿様の女版風)以下、ネタです。 「♪まわりをファンで囲まれたと思ったら〜、『テレビで見るよりきも〜い』といわれました〜♪チックショー!!!」(小梅太夫作) 「チクショー」というのが、教育上いいのかわかりませんが(笑)、このスタイルを小梅流川柳と考えるといろいろ言葉遊びが楽しめます。 「♪おやつのドーナツ冷蔵庫にかくしたら〜、かあちゃんにたべられた〜♪チ・ク・シ・ョー」(息子作) 「♪せっかくはじめてのお使いに出かけたら〜、雪ですべっちゃった〜♪チクショー」(娘作) 「♪新年だ〜ダイエットを始めようと思ったが〜、世の中においしいもの多すぎる〜チックショー」(私作) ご覧の通り、別に高度な技はいりません。「チクショー」に抵抗がある場合は、同じ路線の「ヒロシです」でもいけます。 「チクショー」をアレンジして、「ヤッター版」「クヤシイー版」でもいいでしょう。ちょっと懐かしくなりましたが、ギター侍の「残念」でも遊べます。 なかなかキビシイ(おもしろくない)ネタも出てきますが、お互いにちょっと目をつぶって、一緒に楽しむのがコツです。 こうやって、日々の喜怒哀楽のネタをため、私の息子であれば「母さんへのチクショー」という題名で、いつか作文を書けるでしょう。(^^!) (「お笑いは、ちょっと・・・」と言う場合でしたら、言葉の森でも推奨しているようにダジャレも作文をおもしろくするスパイスになります。言葉の森HP「ダジャレの木」「ユーモアの木」ご参照下さい。又、言葉の森スタッフの放つブログ「日刊ダジャレー夫人」( http://blog.livedoor.jp/primari2/ )は、高度なダジャレ道が楽しめます。) |