言葉の森新聞
2006年4月3週号 通算第931号
文責 中根克明(森川林) |
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■港南台教室で読解マラソン。将来、通信でも |
港南台教室で、希望者対象に5月から読解マラソンを行います。 読解マラソンの概略は次のとおりです。 (1)指定された図書(問題集)を自宅で音読します。(5回以上の復読が目標) (2)教室で毎週読んだページを記録します。 (3)月に1回教室で簡単な問題を行います。。 企画としてはシンプルなものですが、インターネットで自分の進歩の度合がわかるようにグラフ化し、楽しく勉強ができるようにしていきたいと思います。 費用は、図書の実費のみです。 ただし、この読解マラソンは、本人が自覚的に読むことが勉強の中心ですから、先生が手取り足取り教えるものではありません。 勉強時間というものは特に決めませんが、大体1日15分ぐらいが目安になります。自分のペースで読んでいけばいいのですが、毎日継続することが大事ですから、どんなに短い時間でも必ず1日1回は読むというようにしてください。 中学生以上の人は音読をしにくいかもしれませんが、文章のリズムを味わいながら読むのが目的ですから、口の中で小さくつぶやきながら読んでいくようにしてください。 当面、募集学年は、小3〜中3の範囲です。 読解マラソンへの参加を希望される方は、お電話又は下記ホームページからお申し込みください。 受付:4月20日まで 期間:5月1日〜10月31日の6ヶ月間 http://www.mori7.com/marason/ 読解マラソンは、当面港南台教室の生徒が対象ですが、通信の生徒も勉強の仕方は同じですので、夏ごろから通信生も受講できるようにしていく予定です。 |
■神沢利子さんの言葉(しまりす/きらら先生) |
今月は、絵本作家の言葉を紹介します。『くまの子ウーフ』の作者、神沢 利子(かんざわとしこ)さんの言葉です。雑誌のインタビューで、「神沢さんにとって、書くことはどんなことですか? 」と聞かれて、彼女はこう答えました。 「書くことと生きることはくっついています。・・・・・ひとつのことを書くときに、いろいろな方面からものを見ることで深まるものがあるのではないかと思うの。 毎日という時間は、苦しかったり楽しかったりで、ちょっと感じては次へ次へと流されていってしまう。ひとつのものを深めてみつめる時間は、とても少ない。書くこととは、それをつなぎとめる要素があると思うんです。 たとえばね(机上のコップを手にとって)、コップの詩を書こうとするときはこれをじっと見て『この透き通ったコップに谷川の冷たい水を注いだらどんな感じがするだろうか、温かいお湯だったらほんのりぬくもる気分かしら、ひとさじの砂糖をスプーンですくってかきまぜたら、チリチリ・・・と風鈴のような音がするかしら、花を飾るとぱっとうれしくなるのかしら、そして夕日を浴びてバラ色に染まったりするとき、どんな気分かしら・・・』というふうに見るの。」 何でもない、普通のコップが、あっという間にドラマの主人公になってしまったような感じがしませんか。お話を作る人というのは、本当に頭の中の世界が広いですね。 私はこの記事を読んだとき、すぐに「言葉の森のみんなに知らせたい」と思いました。絵本の話と作文という違いはありますが、「書く」という点では同じだと考えたからです。コップを見て、「お茶やジュースを入れる物」としか見なければ、そこでおしまい。けれど、いろいろな角度から見てみると、それは単なる入れ物ではなくなるのです。作文を書くときも、様々な角度から物事を見ていくと作文の幅が広がります。「自分はこう思うけれど、友だちはああ思っているのだろう」「もし〜だったら・・・」というふうに、どんどん世界を広げていって下さい。「まるで〜みたい」と、たとえも使えますね。どこから見てもキラキラ輝くような、そんな作文を書きましょう。 |
■ものの数え方(ひまわり/すぎ先生) |
先日、読売新聞に、『言葉への感性を大切にしたい』というタイトルの社説がありました。今、日本語ブームと言われていますが、クイズ番組でも日本語をテーマにしたものが人気を集めているそうですね。 最近、日本語が乱れているとよく言われますが、これは今に始まったことではありません。古くは平安時代の「枕草子」に言葉の乱れをなげく一節があるそうです。言葉は、生きもののように変化するもの。しかし、いつの時代でも、日本語独特の美しさは、ずっと大事にしていきたいものですね。 ものの数え方に、いろいろな単位があるのも、日本語のいいところです。まさかみなさんは、何でもかんでも「一個、二個」と数えてはいませんね。(笑) まずは食べ物。りんごやみかん【一個】、バナナやぶどう【一房】、いちご【一粒】のように、形状や大きさによって数え方が変わります。房からこぼれたぶどうは【一粒】になりますが。豆腐【一丁】、油揚げ【一枚】のように、同じ原料の大豆から作られるものでも、使い分けます。ただ、油揚げは【一丁】とも言います。 食器のお皿は【一枚】ですが、料理が盛り付けられると【一皿】に変化するのも、おもしろいところです。 乗り物はどうでしょう。自転車や車【一台】、船【一艘(そう)】【一隻(せき)】、飛行機【一機】など、やはり細かく分かれています。船は、大きさによっても数え方が変わってくるのはおもしろいですね。 動物も、やはり大きさによって変わります。犬、猫【一匹】に対して、牛、馬【一頭】。犬でも大きなものは【一頭】と言います。 着る物にもいろいろあります。Tシャツ【一枚】に対して、背広【一着】は、格のちがいが出ているようですね。 このように見てくると、日本語には実にさまざまな数え方の単位があることが分かります。それだけ日本人が、ものの形や大きさ、使い方、格の高さなどに敏感だったことを表しているのではないでしょうか。 この頃では、年齢が一歳ちがうことを、「一個ちがう」などと言いますが、ものを数える単位を繊細(せんさい)に使い分けてきた日本語のよさを、失いたくないものですね。 最後にクイズです。いくつできるかな。 《問題》数え方の単位を答えましょう。 1.レタス・うどん 2.いか・あわび 3.箸(はし) 4.鏡 5.うさぎ 6.椅子(いす) 7.たんす 8.ふとん 《答え》 1.一玉 2.一杯 3.一膳(ぜん) 4.一面 5.一羽 6.一脚 7.一棹(さお) 8.一枚あるいは一組 |
■静筋を養う(ミニー/さらだ先生) |
ゴルフでは「静筋(せいきん)」 が重要だと考えています。ボールの置かれた状況、風の状況、自分の置かれた立場、これからショットしようとするイメージ、そのすべてを静かに判断する力のことです。私にはなかった。どう身につけるかというと、小さいころから静かに勉強したり、本を読んだりすること。藍は中学のときの読書量が年間300冊を越えていました。ほかの選手よりも、藍が本を読んでいた時間は長かったと思います。 これは、みんなも知っているプロゴルファーの宮里藍ちゃん(もう、藍さんの方がいいのかな?)のお父さんである宮里優(まさる)さんが、子育てについて語ったものです。プロゴルファー3兄弟、宮里聖志、優作、藍の父である彼は、3人の子どもの思春期に、ゴルフを通じてコミニュケーションを図りました。その宮里さんが、昨年の11月末に東京、有楽町ホールで、ゴルフ解説者と対談したものを、先生は新聞で読みました。ゴルフ好きの先生は、とても楽しく、驚いたり納得しながら読んでいきました。 すごいね?! 年間300冊ということは。1日1冊近く読んでいた計算になります。たくさんの本を読み、ゴルフのショット前に必要な「静筋」 を養っていったんだね。静かな環境は、はたして藍ちゃんの元にあったのかなあ? 三人兄弟の中で育つには、あまり静かな環境が与えられていたとは考えにくいよね。そのなかで、自分で静かに勉強をし、本を読むということは、ものすごく「集中」 していたことが想像できます。そのくり返しが集中力を養い、よりたくさんの本が読めたとも言えるのではないでしょうか。だから、試合のときにでも、あのすばらしい集中力が発揮されのでしょう。 スポーツと本を読むことは、少しかけ離れているような気がしますが、こんな話を聞くと、相互(そうご)に関係していることがよくわかります。多くの本を読むことによって、彼女は精神的にも成長し、安定していったのしょう。それが彼女のプレーに反映されているのだと、先生は納得しました。 |
■読解力って?(まこ/まこ先生) |
「国語の点数だけが悪い。どうも読解力がないみたいで。」という悩みをよく聞く。点数が伸びないと嘆いている人の大半は、わたしの知る限り読解力が特に弱いわけではない。中には読解力にむしろ優れているのではと思う人もいる。だから点数と読解力とはあまり関係ないような気がしている。 読解力に点数をつけるのは、音楽や美術に点数をつけるのと同じぐらいむずかしいはず。問題を作るのも至難の技だと思う。点数の採れる読解力というのはいったいどんなものなんだろう? イナバウアーに点数がつかないのはなぜ? わたしも教えてほしい。それでついつい「ヘンな問題はできなくてもいい。」などと無責任なことを言ってしまう。採点基準というか、問題そのものが何だか胡散臭い。だから国語の点数が悪いからと言って、読解力がないなんて思わないほうがいい。 だって、荒川さん、金メダルとったでしょ? >ところで、「現国」の試験問題で、読書してしまう人はいないだろうか? >フィクションであれば、いろいろと前後を空想してしまうし、意味ありげな部分の解決を自分なりにつけてしまったりする。 >ノンフィクションの場合も同じである。エッセイなどでわりと良いことが書いてあったりする。うんうん、なかなか鋭い観点だし、共感できる部分も多い、などなど興味深い。 >ところが、その内容の議論にはまったく無関係な、どうでも良いような、馬鹿馬鹿しい質問が後ろにずらりと並んでいる。やれ、ひらがなを漢字にしろ、とか、四角の中に適当な言葉を入れろ、とか、傍線の部分は何を示しているか考えろ、だとか、実に下らない些末(さまつ)で最低の、ほとんど言いがかりに近いうっとうしい疑問が投げかけられているのである。 >どうも、文学や詩を愛する手法を学んでいるとは感じられない。どこか違うのだ。何かまったく別のテクニックを教わっているような気がした。この違和感こそ、国語が嫌いになった理由の一つだと思える。 (森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』より) 長文課題で話題を広げるとき、どの部分に引っ掛かって共感し、あるいは反感を持ち、イメージを広げるかは人によって違う。思い出される体験は似ているようでも同じではありえない。 読解というのは、書き手の意図を読みとるだけでおしまいではなく、その文章を自分はどう受けとめたかを考えることです。作者の意図は、想像し、推察するもので、他人が断定できるものではありません。また、文字にあらわれている言葉だけが文章を成り立たせていると思わないほうがいい。名文ほど言葉にならないものが行間にあふれています。もうここまできたら感性の問題だ。名解釈はもちろん、誤解や曲解、迷解はあってあたりまえだと思いませんか。 「ううっ、そうくるか……。」とうなるような深読みも、ユニークで意表をつく理解もわたしはいいと思っている。それこそが読書の魅力。読んでいて一番楽しい瞬間です。 >言葉の持つニュアンス、意味、雰囲気、響き。そういったものへの感覚、それに対する鋭敏性、執着、そしてオリジナリティの育て方を教えてくれなかった。 これも上記の水柿助教授の言葉である。残念でした。まだそのころには「言葉の森」はありませんでしたから……。 |
■才能(いろは/いた先生) |
私たちに感動を与えてくれたオリンピックも終わりましたね。メダルがとれる、とれる、と言われていながらまったく取れず、もはやこれまでか!というところで得た女子フィギアスケートの金メダル。私も朝からテレビにかじりついて見入ってしまいました。ああ、なんて美しい! 美しいものを見るとまねをしてみたくなるのが人情というもの。「イナバウアー」なるものをまねてみましたが、なんとみにくいことでしょう。美しいものは見ているだけが一番のようです。(^^ゞ さてそんな感動のオリンピックですが、面白い記事を見つけたので紹介します。日本人でありながら、オリンピック出場のため国籍を変えた井上怜奈さんです。彼女は過去二回日本国籍でオリンピックに出場しています。長野オリンピック代表選考で落選後、お父様の死、がんの発症とさまざまな苦悩と対峙しながら、米国フィギアペアの代表の座を得た人です。私たちは「オリンピック選手」というと「生まれながらに才能のある人」という印象を受けます。でもこの井上選手がコーチから受けた言葉は違っていたようです。 「彼女には才能はないが、努力する才能ならある」。 目からうろこが落ちるような言葉です。栄光というものは一部の才能ある人だけが得るものではなく、「努力する才能」でも得ることができるというのです。素敵な言葉だと思いませんか? 私のような凡人も「努力する才能」だったら持てるかもしれないという希望がわいてきそうです。 私たちはとかく高い目標を掲げる前に「もう無理」「これは才能のある人ができること」と自らの可能性を制限してしまいますが、「努力する才能」はだれもが持っているものだとすれば、ある程度の目標は達成できるような気がします。可能性を自分の手で握りつぶすことなく、「努力する才能」を開花したいものですね。 |