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  9月18日(敬老の日)は、休み宿題
  臨時の時間変更は、先生にではなく教室に
  新学期の長文集をルビ付きにする予定です
  作文上達術(うさぎ/きら先生)
  本を開けば不思議な世界(スズラン/おだ先生)
  ことわざを使いこなそう(にこたん/しおり先生)
  般若の形相? (メルトン/うなぎ先生)
 
言葉の森新聞 2006年9月3週号 通算第951号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
9月18日(敬老の日)は、休み宿題
9月18日(敬老の日)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
臨時の時間変更は、先生にではなく教室に
 いつもの授業の時間に電話を受けられない場合、時間の変更を担当の先生に直接依頼しないようにしてください。
 理由は、担当の先生にはそれぞれ生活時間があり、また、電話指導にはそれなりの精神的な集中力が必要なので、臨時の変更は先生にとって負担になることが多いからです。
 臨時の変更は、教室に直接お電話ください。そのときに担当できる先生が折り返しお電話をする形で電話説明をします。
(平日午前9時〜午後7時50分。土曜午前9時〜午前11時50分)
 また、同じ理由から、先生の自宅への直接のお電話もしないようにしてください。先生への連絡は事務局あてにお願いします。
新学期の長文集をルビ付きにする予定です
 新学期の長文集の小学1・2・3年生の文章を中心に、ルビをふっていく予定です。

 ルビをふる理由は、漢字を読み間違える生徒が多いためです。
 もともと長文は、ルビなしの文章を、お父さんお母さんに読み方を聞きながら読むことを目的にして作られていました。このように読んでいくと、漢字を漢字のまま読む力がつきます。湯川秀樹が、小学校低学年のときに論語の素読をした際の読み方も同じでした。
 しかし、現実に、多忙な両親が、毎日長文の音読を聞き、そのつど読み方を教えるということは難しい面もあるようです。このため、中学生になると、読み方を間違えたまま長文を読んでいる生徒がかなりいました。

 そこで、印刷物の長文はルビ付きにして、ルビなしの長文はウェブに掲載するようにしました。

 ルビなしで読む力をつけるという考えは、いろいろな勉強の仕方に共通します。
 例えば、音楽の音符を読むときに、「ドレミ」などの文字を書いてしまう人は、なかなか音符を読めるようになりません。
 英語の文章を読むときに、日本文のようにうしろから戻って読む読み方をしていると、なかなか英語の文章に慣れません。(例えば、I can’t speak English.という英文の読み方は、「私は、英語を話すことができない」と訳しながら読むのではなく、「私は、できない、話すことを、英語を」という調子で読むということです)
 海辺で暮らしている人は、スイミングスクールなどに通わなくても自然に泳げるようになります。
 難しい文章に接していると、解説を聞かなくても自然に意味がつかめるようになります。
 勉強の基本は、習うより慣れろで、その能率を高めるために知的な学習があります。

 ルビ付きの長文で読み方を覚えたあとは、ぜひルビなしの長文にも挑戦してみてください。

 さて、このルビの歴史です。
 戦前までの新聞は、ほとんどルビつきで印刷されていました。これは、国民教育という観点から、国民がすべて必要な文章を読めるようにするという政策の一環でした。
 しかし、戦後、日本が侵略戦争の道に進んだのは、正しい世論が形成されなかったためで、それは日本語に難しい漢字がありすぎたためだという議論が出てきました。当用漢字(今の常用漢字)は、このような議論の中で制定されました。
 当時は更に過激に、日本語をローマ字にしようとかひらがなだけにしようとかいう意見もあったようです。中には、日本語をやめてエスペラント語やフランス語を国語にしようという人もいたぐらいですから、いかに当用漢字が熱狂的な空気の中で制定されたかがわかります。
 当用漢字の制定と合わせて、ルビをふらなければ読めないような漢字を使うのはやめようという考えが出てきました。これには、細かいルビの字は目に悪いという声も後押ししたようです。
 その結果、戦後の新聞は、当用漢字のみでルビなしという形でスタートしました。
 しかし、このルビなしの影響は、意外なところに現れました。これまで、ルビがあれば大人の読む文章も平気で読めた子供たちが、子供向けに書かれた優しい文章しか読めなくなったのです。日本人の総体的な読解力低下には、このことが一つの大きな原因となっています。
 現在、ルビを復活させようという声が出ているのは、このような背景があるからです。
作文上達術(うさぎ/きら先生)
 今回は、作文が大好きだったという作家の言葉を紹介します。
 角田光代さんの作品に出会ったのは、子供たちが「キッドナップツアー」を読んでいたからでした。離婚したお父さんに誘拐される少女のお話で、女の子の気持ちの内側がきらきら見えるような、すてきな作品でした。その後、テレビに出演されていた角田さんを見て、ああこの人だったかと納得したのを覚えています。小学校から、作文が大好きだったのだそうです。そういう人が作家になったと聞いても、なんだか私たちとは別世界の出来事のように思うでしょうか。
 角田さんが、取材に応じて「作文上達術」として挙げられていた「四か条」をご紹介したいと思います。とても、感銘をうけました。

 1.タイトルと書き出しの一文で読み手の心をぐっとつかもう

  小学校の頃、お母さんから、あなたの作文はいつも「私は」で始まってばかりでつま んないなと言われて、「私は」を使わない書き出しに心を砕いたのだそうです。
  ★言葉の森の項目「書き出しの工夫」と同じですね。

 2.伝えたいことを一番大切に

  「書くことがない」と悩んだら、今日の朝ごはんのことを考えてみよう。「いつもの あさごはん」ならどんな「いつも」なのか書こう。大切なのは「伝えたい気持ち」です 。
  ★この「今日のこと」を書くという必殺技は、言葉の森でもおすすめしています。
  項目「中心をきめる」と同じですね。

 3.「自分の言葉」で書こう

  伝えたいことをうまく伝える為に、「自分の言葉」を見つけよう。
  どんなことでも自分と向き合い、自分と対話して、自分にはどう見えたのか、どう感 じたのか、ひとつひとつ思い出して言葉で再現してみるのです。
  ★項目「たとえの表現」もこのひとつですね。

 4.大人は子どもの作文を評価するべからず!

  先生にお願いしたのは、評論や指導じゃなくて「トーストの焼けるところがおいしそ うだね。」みたいなコメントを入れるくらいにしてほしい。
  ★まさに、言葉の森のスタンスと同じです。

 言葉を自由にあやつって独自の世界を織りなして行く作家には、あこがれも、うらやましさも抱きます。書くのが大好きという年月があって、作家になられたようです。まず、好きになることが大切です。

 最後に、もうひとつ角田さんの言葉。
「気持ちがあれば、言葉はいらないこともある。でも、言葉は大事」
本を開けば不思議な世界(スズラン/おだ先生)
「ときには太陽がかがやき、ときには満月が光る。ときにはすぐそばの本があなたを遠くへと運んでくれる・・・中略・・・ときにはあなたの声がつまり、ときには瞳がきらきら光る。ときには本のなかの物語はすてきな嘘でいっぱいのつくりごとなのに」

 これは、国際児童図書評議会が制定した4月2日(アンデルセンの誕生日にちなんだそうです)の「こどもの本の日」に、ベルギーの詩人バルト・ムイヤールトさんが寄せたメッセージ「本をひらけば不思議な世界」の中の一節です。本を読む楽しみが全部入っているように思います。
 また、このコラムには、作家の井上ひさしさんは「本は人の運命を変える。知恵を働かせて生き抜いていこうという勇気が出てくる」と言っていること、例えば、「ロビンソン・クルーソー」を読んで、生きていくためには仲間がどんなに大切かを知り、「宝島」では自分の大事なもののためには戦わなければならないことを知るだろうとも書いています。こんなふうに、一冊の本を読むことで、体験できないことを知ったり、生きていくために必要なあらゆることを学ぶことができそうです。

 みなさんはよく本を読んでいますから、「本を読みなさいね」と言わなくても大丈夫そうですが、中学生になると部活や勉強で時間をとられ、読書の時間がなくなっている人が多いようです。
 札幌のある本屋さんは「本屋のオヤジのおせっかい。中学生はこれを読め」というキャンペーンまでしているそうですからおもしろいですね。500冊のお薦めをリストアップ(ときどき変更)しているそうですが、いまでは、いろいろな本屋さんでこのお薦めリストを紹介しているそうです。例えば、ミヒャエル・エンデ「モモ」、手塚治虫「火の鳥」、ル・グウィン「ゲド戦記」(今、アニメにもなっていますね)、森本哲郎「生き方の研究」、サンテグジュペリ「星の王子さま」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」などなど、小学生高学年にもお薦めです。
 
 いま、私は白洲正子さん(1910〜1998年)の著書を何冊か読みながら、本物の良さにふれる気持ちを味わっています。この白洲さんは、お能や、日本に古くから伝わる物への造詣が深く、本物の良さを自分の言葉で分かり易く伝えてくれています。私がいままで実際に行ったことのない所、体験したことがないことまでもが、自然に想像できるような文に引きつけられています。好きな作家の文に触れ、知らない世界を知る楽しみを味わいながら、少しでも暑さを忘れる幸せな時間をつくっています。
 みなさんも、宿題の整理をしながら読書やお手伝いなどの時間を持ち、残り少なくなった夏休みを楽しく過ごしてください。
   
ことわざを使いこなそう(にこたん/しおり先生)
 「ことわざ」は諸説によると「言葉の技(ことばのわざ)」なんだそうです。作文の中にピリッと香辛料のようなスパイスを効かせるひけつになりますね。
 あなたはいくつのことわざを知っていますか?五つ以上言えた人はすごいぞ!思い浮かばなくなったら、おうちの人に聞いてみましょう。いくつ知っているか、知恵比べをするのもいいでしょう。もっと知りたくなってきたら、調べてみましょう。本やインターネットなど情報はいくらでも手に入りますよ。夏休みを利用して、ことわざ辞典を自分で作るのも面白いですね。
 先日「外国のことわざ」(アリス館:北村孝一 著書)に興味深い内容がありました。 言葉が万国にあるということは、ことわざもそれぞれあるということです。おうちの方は英語の時間に英訳を習った方も多いかもしれません。以下のことわざは実は海外から日本に入ってきたものと知ってびっくりしました。
・おぼれる者はわらをもつかむ  ・豚に真珠 ・二兎を追う者は一兔をも得ず ・一石二鳥 ・鉄は熱いうちにうて ・・・ 

 それでは、いくつか海外のことわざを紹介します。ことわざで世界一周旅行へご招待!
「馬は四つ足でもころぶ」 (ヨーロッパ、アフリカ地方):馬が転ぶ場面はあまり見かけないかもしれません。四本足の馬でも転ぶ、ということは二本足の人間が転ぶのは当然だ、ということ。「猿も木から落ちる」「弘法も筆の誤り」と似ていますね。少しくらいの失敗は笑って許すことが出来る心の広さをあらわしていますね。一方こんなことわざもありますよ。
「ろばでも同じ石につまずかない。」(フランス、イタリア):一度の失敗をくりかえすのはろばよりも劣る、ということかな。これは失敗を何度もくりかえさないように、といういましめの意味があるようです。 
「日が照るうちに干し草を作れ」(イギリス)「思い立ったが吉日」(日本)「雨の降っている内に水瓶を満たせ」(トルコ)「ねんどがしめっているうちにこねよ」(南アフリカ)それぞれの国の気候もことわざと大きな関係があるようですね。

☆ことわざ大好き親子の会話☆・・・言葉の森のしおり先生からの電話の直後編・・・
母「さあ、日が照る内に干し草を作れ、と言うし、すぐに作文に取りかかったら?」
子「学道に王道なし、一休みしてよく考えるよ。」
母「そんなこと言ってこの前みたいに居眠りしないでよ。ろばでも同じ石につまずかないわよ。」
子「馬は四つ足でもころぶんだよ。たまの失敗は大目に見てよ。」
母「んまあ(ダジャレ)なんですって。」(怒)
子「母さん、鍋がたぎっているよ。」
母「あらあら、大変・・・!」
子「小さな鍋はすぐにたぎる、と言うことわざはまさに母さんのことみたいだなあ。今日の作文のネタがひらめいちゃった。さあ、鉄は熱いうちに打て!」(笑)
般若の形相? (メルトン/うなぎ先生)
 ここしばらくの間、私の住む家のエリアで道路工事が続いています。いったんアルファルトを取り除いて舗装をし直すため、作業中の部分は片道道路になります。そこで起こるのが渋滞です。一方の車線にいる車は係員の指示で一時待機し、向かいから来る車を通し切ったらこちらに進めの合図をします。私も車を運転する際はこの行列に参加することがあるのですが、そこでの出来事です。
 永遠に感じると言えば大げさですが、往々にして何かを待っているときは時間を長く感じるようです。でも、この場合は仕方が無いですね。工事中なのですから。ところが周囲のドライバーは黙っていません。一部の車だとは思いますが、クラクションをけたたましく鳴らし、わざわざ窓から腕を突き出して作業員を侮辱するしぐさをする人まで現われます。「仕方が無いじゃない。あの人たちも仕事なんだし。数分の辛抱もできないなんて、わがままな上に下品だ。」などという考えが頭の中をよぎりました。そしてどこかで「辛抱強くわがままも言わないマナーのよい私」に慢心したような気がします。しかし、さらに待ち時間が続くうちに、バックミラーの中に確認したのは、般若のような形相の私です。正直に言って、ショックでした。足止めをくっていることに無意識のうちに苛立ちを覚え、腹の中で毒づいていたのです。これでは他人のことは責められません。「マナーのよい私」が聞いて呆れます。

 進めの合図がこちら側に出て車が動き出しました。ガタガタする砂利道を徐行しつつ、旗を持って立つ係員にさらに近づいて行きます。罵倒や侮辱を受けた後なので、さぞかし辛そうな顔をしているに違いないと思ったのですが、そこで目にしたのは、その係員の笑顔です。彼女の横を通りすぎるドライバーの中に、何か彼女に笑顔で話しかけたり、手を振ったりする人がいるのです。おそらくそうすることで「心無い人間に負けるな。私はあなたの味方ですよ。」と意志表示しているのでしょう。私が彼女の横を通る番が来ました。私はぎこちなく微笑みながら通り過ぎました。表情の動きが乏しくて、たぶん微笑んでいることに気づかれなかったと思います。不満を溜め込んでいたドライバーの1人に見えたでしょう。そしてあの般若面を思い出すと、それを否定できないのが事実です。かといってはっきりと表に出す度胸も無い、ということも。
 怒りや苛立ちを露骨にぶつける人たちと、知り合いでもない係員に親切心を惜しまない人たちという対照的な行動を取る人間たちの中にいて、自分のモラルやマナーが非常に危く全く当てにならないものに感じた体験でした。態度や立場を明確にすることを避ける傾向を選んでいるうちに、自分の心根にフタをしていたということでしょう。だからいちいちバックミラーで確認しないと、般若の形相をしていることにも私は気づかないのです。些細な出来事ですが、そんなことを考えました。
 
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