言葉の森新聞
2006年10月3週号 通算第955号
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森新聞 |
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■見える学力・見えない学力 |
「見える学力・見えない学力」(岸本裕史著)という本があります。これは名著です。しかし、今回はその本の紹介ではなく、見える学力・見えない学力とは何かという話です。 子供が中学生や高校生になると、学力の基本などはどうでもよくなり、何しろ志望校に合格してほしいという気持ちに親も子もなりがちです。しかし、学力の基本は、中学生や高校生になっても考えておく必要があります。 見える学力とは、計算力や漢字力や勉強的な知識の量です。それらはひとことで言えば、テストの成績として表れるような力です。 そういう学力はもちろん必要ですが、それとともに、見えない学力の方もしっかり育てていく必要があります。 見えない学力の第一は、勇気です。人生のいろいろな分かれ道で、回避の方向にではなく挑戦の方向に選択することのできる力です。これは、決して生まれつきのものではありません。教育や自己啓発によって育っていくものです。小学校時代に優秀だった子が、大人になるにつれて目立たなくなってしまうことがあります。逆に、小学校時代にあまり目立たなかった子が、大人になるにつれて活躍するようになることがあります。その差は、社会人になるにしたがって挑戦する機会にどれだけ恵まれていたかによるものです。 見えない学力の第二は、作文力に代表される考える力・表現する力です。ときどき、学校の成績はいいが、作文はあまり得意でないという子がいます。学校の成績には、作文力はほとんど出てきませんが、漢字や計算は点数としてしっかり出てきます。しかし、その子が大きくなるにつれて、漢字力や計算力などの知識・技能はだれもが同じようにできるものになっていきます。差が出てくるのは、自分の意見を周りの人に向けて述べる力です。 見えない学力の第三は、人間性です。これまで教えてきた子供たちの中に、次のような子がいました。一人は、自分の成績のいいことを、「自分はたまたま勉強が好きなので成績がよかっただけだ」ととらえていました。これは真実です。成績のいい子に共通しているのは、勉強を長時間続けることが苦にならないという性格だからです。もう一人の子は、「成績の悪い人間はなまけ者だ」ととらえていました。これも一面では真実です。勉強しない子は成績が悪いからです。ところで、こういう二つのタイプの人間が、自分の友人や上司になるとしら、どちらの人を選ぶでしょう。世の中の動きの多くは、周りの人にどれだけ支持されるかによって決まってきます。最後に物を言うのは、成績ではなくその人の人間性なのです。 言葉の森の目標は、個性・知性・感性を育てることです。それは、言い換えれば、上に述べた勇気・思考力・人間性を育てることです。指導の内容はまだはるかに不充分ですが、この学力の基本を目標として指導していきたいと思います |
■詩が少年たちに大人気だった時代(はち/たけこ先生) |
先日、『思い出の少年倶楽部時代』(尾崎秀樹・講談社)という本を読みました。 『少年倶楽部』というのは、太平洋戦争前後、子どもたちに大人気だった雑誌です。今で言うと、『少年ジャンプ』みたいな感じでしょうが、違っているのは、中身がほとんど「物語」だったことです。 この頃は、『少年倶楽部』だけでなく、どの雑誌も読み物中心で、大人気だったそうです。もちろん、少女向け雑誌もありました。 そんな時代の人気作家たちと作品を紹介している本です。たとえば、『ああ玉杯に花受けて』『敵中横断三百里』『花物語』などという物語だったそうで、みなさんのおじいさんおばあさんなら、なつかしく思われる方もいるでしょう。 その中で、驚いたのが、「少年詩」が人気を集めていたということ。 詩ですよ、詩! 今でいうと、もちろんポップス系やラップ系の歌の歌詞が好きという人もいるでしょうが、歌なんかついていない、目で読む詩ですよ。 その第一人者が「有本芳水(ありもとほうすい)」という人だそうです。明治19年から昭和51年まで生きてきた人で、この人の『芳水詩集』は、なんと三百版近く再版されるという超ベストセラーになったそう! 例としてあげられている詩のごく一部(一連)を書き写してみます。(本文P18) 「粉河寺」 馬の背にしてかへり見る 春暮れ方の紀伊の国 松原かげに旅人の すげ笠あまたゆきかひて 赤き夕日は橘(たちばな)の 花咲くへに匂ふかな ・・・みなさん、いかがですか? 「ことばのひびき」と「内容のロマン」に感動していた時代。 想像できるかな? 私は田辺聖子さんという作家の本が好きなのですが、この方の作品にはたくさん知らない珍しいことばが出てくる・・・と思っていたのですが、そのことばも『少年倶楽部』の作品の中にはよく使われていることもわかりました。「獰悪(どうあく)」とか「剽悍(ひょうかん)」とかね。本を読んだり、音楽を聴いたりするとき、こうした「ことば」そのものも愛して、味わってみるのも、楽しみの一つだと思います。 |
■ゴミを 「捨ないで」?!(しろくま/いのこ先生) |
☆ 私は、外出先でいろいろなおもしろいものを発見するのが大好きです。かわいいポスター、おもしろい看板、おかしな建物…。ときには、不思議な人にも出会います。 ある日のこと、いつものようにのんびりと歩いていたら、一枚の貼(は)り(り)紙(がみ)が目に入りました。その貼り紙には、 「駐車場にゴミを捨ないでください。」 と書かれています。 おや、変ですね。何かが足りません。そうです。送りがながまちがっているのです。私は、字のまちがいがとても気になります。この貼り紙の場合、正しく書くと、 「駐車場にゴミを捨てないでください。」 となります。思わず家に走り、赤いマジックを持って来たくなりました。(その気持ちは、グッとこらえましたよ。) その後に、うちの小学生の娘といっしょにその貼り紙を見に行きました。わが娘が、まちがいにすぐに気づいたことに安心するとともに、世の中のいろいろな看板や貼り紙がすべて正しいと思っていると、まちがえて覚えてしまうこともあり得るなとあらためて思いました。これは送りがなに限りません。言葉のつかいかたにしても同じことが言えるでしょう。 もしみなさんが、「何か変。」と思うような字や言葉を看板や貼り紙に出会ったら、家に帰って、まず辞書で調べてみましょう。それからは、おそらくその字や言葉を絶対にまちがえることはないはずですよ。 |
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■秋の七草(ぺんぎん/いのろ先生) |
最近、夏草でむせかえるようだった庭の草むしりをしました。とてもすっきり! 気分転換(てんかん)に何か花を植えようということになり、さて、何にしようかなと考えていました。店先で見つけたのは黄色い清楚(せいそ)な花。夏休みに遊びに行った友人の家近くの山野(さんや)に群生(ぐんせい)していた「女郎花(オミナエシ)」です。 「秋の七草なんですよ。」 という店員さんの言葉に心が動きました。暑い夏につかれていたためか^^;、「秋」を求めていたようです。「群生」を夢見ながら鉢を手に取ってみると、ほんのちょっとで700円。「今すぐの群生」はとりあえずやめにし(笑)、この一鉢から増えていく様子を楽しもうというテーマに切り替えることとしました。 早速小ぎれいになった庭の片隅(かたすみ)に植えてみる。来年の今頃、ここに「群生」ができているということを想像してニヤリ。(さあ、どうなるでしょうか。) まだまだ暑いけれど、「秋」を少し、自分の生活に連れてこられたような気がして、一人ほくそ笑んでおりました(^^ゞ。 ところで「秋の七草」とは……? 少し紐解(ひもと)いてみましょう。「萩(ハギ)」、「薄(ススキ)」、「桔梗(キキョウ)」、「撫子(ナデシコ)」、「葛(クズ)」、「藤袴(フジバカマ)」、そして「女郎花(オミナエシ)」の七つの花だそうです(それぞれどんな花か思い出せますか?)。日本最古の歌集と言われている『万葉集』で、山上憶良 (やまのうえのおくら)という人が、この秋の七草を選定したとのこと。こんな歌が古い古い時代に詠(よ)まれていたのですね。 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり) かき数うれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」 (山上憶良) (尾花とは、ススキのこと。桔梗の代わりが朝顔になっているそうですが、この朝顔が何であるかは諸説があるとのこと、です。) 「七草がゆ」として「食」を楽しむ「春の七草」とちがい、「秋の七草」は花を 「見る」ことを楽しむもののようですね。ちなみに「女郎花(オミナエシ)」もかわいい小花の集まりですが、香りは決して良い方ではありません。食欲の秋だからと言って、まちがっても「食」してはいけませんよ……!(そんな人はいないかな★) 「女郎花(オミナエシ)」。この花の名前一つとってみても、昔からの意味が含まれ、知れば知るほどおもしろい。粟粒のような花房が、昔「女飯(おんなめし)」と言われていた「粟ごはん」に似ていたことから「オミナメシ」→「オミナエシ」となったという説があるとか……。他説(たせつ)もあり、もう一つ学級新聞が書けそう(今回は割愛します^^)。 とにもかくにも、日本の四季の移り変わり、いいものですね。派手(はで)さはないけれど、日本の「四季」の味わいは、かけがえのない財産だと密かに感じています。「自然」と一緒に、様々な「言葉」に出会えるのも、日本語のおもしろさなのかなとも思いました。 皆さんも、身近な「秋」を楽しみましょう。四季の風情(ふぜい)の中に、豊かな言葉が秋の虫のように涼やかな声で鳴いているのを見つけるかもしれませんよ。 |
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■合評会(かな/やす先生) |
大人になっても、文章を書く修行をしている人はたくさんいます。私もその中のひとりなのですが、その方法として一番効果があったのは「合評会(がっぴょうかい)」という方法でした。 自分の書いた文章を仲間に読んでもらい、いろいろ意見を言ってもらうのです。これを続けている人は、たいていジワジワ上達していきます。そう、続けていけさえすれば……。 というのは、なかなか「続ける」ということがむずかしいのですね。 自分が心をこめて書いた自信作を、みなに読んでもらう。その時点では、もう期待で胸ははちきれんばかりです。 きっと、絶賛の渦、感動の嵐。すごいね〜、うまいね〜と拍手かっさいになるかもしれない。感動のあまり泣いちゃう人がいたらどうしよう…… などと、都合の良い妄想にどっぷりつかったりしているわけですね。 ところが、それほど自信まんまんなのにもかかわらず、仲間はたいして感動してくれないことがほとんどです。 「ここがうまいなと思いました。でもこのあたりがちょっと……」 「悪くはないんだけど、ここを直せばもっとよくなるかも」 ひどいのになると、「ん〜、なにが言いたいのかわかりませんでした」 みたいに、けちょんけちょんに言われることだってあるわけです。そこで、たいていの人はがっくりきます。 「やっぱりわたしって、だめ……」とふて寝しちゃったりして、「もうやだ。もう書かない」と合評会に来なくなったりする人もいます。こういう人は、ぜったいにうまくはなれません。だって、書かなくなっちゃうんですものね。 うまくなるひとは、こういう時、めげません。 めげない、という形にもいろいろあって、 「ふん、わたしの才能がわからないなんて、あんたたち、バカじゃないの」と思う人。 「へえ〜、世の中にはこういう見方をする人もあるんだ。まあ、わたしはちがう意見だけど、いちおう今後の参考にしよう」と思う人。 「わーん、わたしってまだまだダメなのね。でもいつかほめてもらえるように、顔洗って出直す」と思う人。 どの形でもいいです。とにかく、めげないことが大切です。めげずに、また書く。何回でも書く。こういう人は、必ずうまくなります。だから、みなさんも必ずうまくなる、と私はきっぱり言うことができます。 だって、みなさんの作文の提出率が、とてもいいんですもの。全面的にほめてあげられる時もあれば、そうでない週もありますね。でも、みなさんはそれでも、毎週毎週頑張って書いてくれる。めげず、くさらず、ちゃんと書く。 これはもう、すばらしいことです。どうかこれからも、とにかく続けて書いてください。それが、作文がうまくなる、ただひとつの方法です。 |