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  2月12日(月)は休み宿題(再掲)
  オープンソース長文プロジェクト
  わたがしみたいな雲(なら/なら先生)
  「私にできることは、なんだろう。」(うるっち/かん先生)
  想像力(まあこ/ゆた先生)
  ゆとりの気持ち
 
言葉の森新聞 2007年2月2週号 通算第970号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
2月12日(月)は休み宿題(再掲)
 2月12日(月)は休み宿題です。
 先生からの電話はありません。その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
オープンソース長文プロジェクト
 言葉の森では、現在、オープンソース長文プロジェクトを考えています。
 言葉の森の長文は、これまで主に、市販の図書から作成してきました。
 最初のころは、著作権の問題があるので、学期ごとに生徒1人につき図書を1冊購入し、その一部を教材として利用するという形を取っていました。
 しかし、図書の寿命は短く、利用したい本が次々と絶版になっていくので、図書を購入して利用するという方法はできなくなりました。また、図書によっては、内容は優れているものの、表現が今一つであるようなものもありました。何よりもネックになったのは、小中高生が読むのにふさわしい、説明文や意見文の優れた本が少ないということでした。

 現在、取り組んでいるのは、教材となる長文をオリジナルに作成していくことです。
 既に、前学期と今学期の小学1・2・3年生の読解マラソン用の長文は、言葉の森の講師が作成しました。作成する長文の条件は、勇気と知性と愛とユーモアです。読んでいて明るくなるもの、科学的なもの、愛情に溢れたもの、面白いもの、ということです。
 作成の仕方は、既にある優れた内容の本や記事を参考に、作成者が内容も表現もすべて新しく作り直して書くという形です。今のところは、現代のものが中心になっていますが、日本には優れた内容の古典で埋もれているものが数多くあります。将来は、それらの古典も現代的な内容と表現で再生したいと思っています。日本語の文章は、日本文化のローカリティを反映したものであるべきだと思うからです。これは世界中のどの言語にとっても同様です。

 さて、オープンソースと名づけたのには、二つの理由があります。
 一つは、読者の声を聞きながら、常に内容や表現を改善していくということです。これまでの本の著作権は、作者のもので、作者の同意がなければ、文章を変更することはできませんでした。しかし、書かれた文章の本来の権利は、読み手にあります。特に言葉の森の長文は、読解マラソンなどで子供たちが音読することが多いので、その子供たちが喜んで読めるようなものに日々改善していけるようにしたいと思います。これを、ウェブを利用したオープンな場所で行っていく予定です。
 オープンソースのもう一つの理由は、これらの長文をだれもが自由に利用できるようにするということです。現在、学校や学習塾が、国語の教材や国語の問題として日本語の文章を利用しようとするときにネックとなっているのが著作権の問題です。文章を書く人の権利は尊重されなければなりませんが、言葉の森の長文に関しては、そういう堅いことは言いません。だれでもフリーで利用できるものにしたいと思っています。
 また、この長文をもとにした国語問題もオープンソースで作っていきたいと思っています。
わたがしみたいな雲(なら/なら先生)
 今、私が担当している会員は、ほとんどの子が数年にわたって作文に取り組んでいます。なので、送られている課題フォルダの項目も、段階を経て少しずつレベルアップしています。その中にある「表現」の項目には、「たとえ」が入っていることは、もう皆さんも知っていますね。小学生時代のものにはずっと「●たとえ」と入っていると言ってもいいくらいです。あるとき、会員(小学校上級生)のお母様から相談を受けました。
「たとえを入れようと言うと、子供っぽいと思っているらしく、嫌だと言います。」
確かに、目に見えたものを他の何かにたとえてみるというのは、小さな子がよく使う表現ですから、そう感じるかもしれませんね。「あの雲、わたがしみたい。」こういう説明はかわいらしいですが、なるほど、小学生の低学年によく見られる書き方です。たとえの目的は、自分が見たもの・感じたものを、他の人にもわかりやすいようにイメージが重なるものを使って説明するということです。小学生(特に低学年)の場合は、目に見える具体的なものを他の具体的なものに置き換えるために、子供っぽいという印象になるのでしょう。
 学年が上がってくると、たとえの対象が目に見える具体的なものから、抽象的なものになってきます。
 低学年(A)そのとき、友達の◇◇◇ちゃんは、まるで……みたいだった。
 高学年(B)友とは、……のような存在だ。
たとえという表現方法は同じでも、考えが深まっています。(B)に「人間にとって」を入れると、そう、「大きなまとめ→一般化の主題」になりますね。
 ◆人間にとって、○○○とは……だ。
この文が作文に入ると、読み手は「ほほぅ。」と思います。そこに書き手の主張がはっきりと示されているからです。この一般化の主題を書けるようになるため、そういう意図が低学年のたとえの練習にあると考えてもいいと思います。
 高校生向けの「表現」の課題に「自作名言」というものがあります。これは
 ◆○○○とは〜ではなく……だ。(なぜならば……)
という形を基本として考えます。「自作名言」でもありますし、自分の表現による定義付けととらえてもいいでしょう。この表現ができるのも、たとえの練習を積み重ねてきているからなのです。前に、たとえの目的を示しましたが、練習が進んでくると、イメージが重なるものを用いるだけでなく、反対に、意外なものをたとえに使うことで、読者をひきつけたり、独自性を出したりすることもできるようになります。そういう土台があってこそ、切れ味のいい自作名言ができるようになります。
 作文が入試や入社試験で課される場合も増えました。この自作名言が作文に入っていると、かなり注目度が上がるはずです。そこには、表現力や思考力など、書き手の力量が凝縮されているからです。
 今回は、少し硬い内容になってしまいました。いつもの電話のように、ざっくりと言えば、「どんどんたとえを使おう。おもしろいたとえを考え出してみて!」ということです。今年も楽しく作文に取り組んでいきましょう。
「私にできることは、なんだろう。」(うるっち/かん先生)
 「私にできることは、なんだろう。」(地球市民村編 ascom)
冬休みに私が感銘を受けた一冊です。この本は、環境、平和、国際協力など、日頃頭の片隅で気になってはいるけれど、忘れがちなことについて、世界の現状を教えてくれます。また、今後の問題についても。今の自分にできることは何かを考えるきっかけにもなりますし、平凡だと思う毎日がなんて恵まれたものなのだろうと感謝の気持ちでいっぱいになるはずです。

 その中からいくつかをみなさんにご紹介しましょう。
★30分に1人、誰かが地雷を踏んでいます。被害者の4人に1人は小さな子どもたちです。地雷は1個300円。1個を撤去するためには10万円がかかります。世界中に埋められている地雷をすべて除去するには1千年かかると言われています。
★空腹のまま、1分間に17人が亡くなっています。12人は子どもです。一方で好きなときに好きなだけ食べることができる人は、世界に5分の1います。日本に住む私たちもその1人です。
★5人に1人は小学校に行っていません。貧困が理由の場合も、また校舎や先生の不足、教材の不備といった体制が理由の場合もあります。5人で1冊、ひどいところでは100人で1冊の教科書を使う学校もあります。
★日本人を食べさせるため、海外に日本の耕地の4倍の土地が必要です。たとえばバナナは安く手に入る果物ですが、そのためにフィリピンでは時給46円で働いている人々が存在します。そうして手に入れた輸入食品は年間に5800万トンにも上りますが、3分の1は食べずに捨てられています。

 どうでしょうか。想像もできない現実が世界には広がっている、その事実を突きつけられ、胸が潰れる思いでした。
「世界には二つ貧しい国がある。一つは物質的に貧しいインド。もう一つは、世界でこれだけ困っている人がいるのにそのことに無関心でいられる日本である。」
マザーテレサの言葉です。豊かになったと言われるようになって久しい日本ですが、心が貧しいということは、経済的に貧しいことよりも数段悲しいことだと思います。経済的な豊かさと反比例するように心は貧しくなってきているような気がしてなりません。自分さえよければという風潮がいたるところに見受けられます。経済的に恵まれた国に生まれたことは幸運なのか、それとも不幸なことなのか、正直私にはわからなくなることもあります。

 「私にできることは、なんだろう。」
考えてみてください。そしてあなたにできることを探してみてください。私はこの本を読んでからというもの、募金箱をみかけると、必ず小銭を入れるようにしています。ちなみに、500円硬貨1枚で、エチオピアの76人がパンを食べられるそうです。大それたことでなく、どんな些細なことでもいいではないですか。まずは第一歩を踏み出してみましょう。

  参考文献 「私にできることは、なんだろう」(一部文中を抜粋してます。)
    
想像力(まあこ/ゆた先生)
ゆた組のみなさん、こんにちは。学級新聞・2007年始め号です。

 年の始めに一年の目標を掲げた人も多いと思います。達成に向けて前進し、充実した日々にしてください。
 目標というほどはっきりしたものではありませんが、私は毎年テーマを決めています。今年のテーマは「想像力」。とくに現実から想像することを意識していきたいと思います。

 友人が突然ぎっくり腰になったときのこと。何とか助けてもらいたいと痛みをこらえて、やっとの思いで病院にたどり着いたのに、簡単に「一時間待ちです」と言われてしまった。立っていることも座っていることも辛いのに、そんなに耐えられないと途方に暮れたそうです。
 結局融通が利かず、他の病院に行ったそうですが、その話を聞いたときに私は「受付の人に痛みの想像力が足りなかったんだ」と思いました。

 息子が算数のテストで間違えたときのこと。「サッカーの大会でAチームは何試合することになりますか」という問題。息子の答えを見ると公式に当てはめて計算したようなのですが、「いや、これは多すぎるだろう。そんなに試合をするわけがない」とひと目でわかる数字が書かれています。
 そこで私が言ったのは、「せっかくの文章問題なんだから、自分がAチームの選手になったつもりで考えればいいじゃない。あと何勝したらベスト4入りだとか優勝できるとか、普通、選手だったら指折り数えるでしょう。ちゃんと想像しなくちゃぁ」ということでした。

 さて、そういう私は果たして想像力に長(た)けているのか? いや、そうではないでしょう。病院のこともテストのことも、結果を聞いたり見たりしてえらそうなことを言っているだけです。
 現実の当事者が想像しないというのは、自分の一方的な考えしかできずに他の面があることに気づいていないということです。ですから私も、あらゆる場面で他の見方に気がつかず、想像力に欠けているに違いありません。そして、それは当たり前のことであって、誰もすべてのことを想像することはできません。だから人間は誰でも、間違い、失敗するのです。

 しかし、あらゆる場面で「他にさまざまな見方、考え方、事情があるのだ」と知っているということは、とても重要なことだと思います。とくに「もし私だったら……」と想像することは、簡単にできること。
 「私がこの患者さんだったら……」そう思ったら「大丈夫ですか、座って待てますか?」という一言ぐらい出てきそうです。 「もし私がAチームの選手だったら……」そう考えれば、数字だけの計算よりずっとおもしろい。

 「想像力」を今年の目標にしようと思った最大のきっかけは、NHKの「知るを楽しむ」という番組の中で聞いた、工学院大学教授の畑村洋太郎さんの話からです。
 テーマは「だから失敗は起こる」で、失敗を生かしていく姿勢について語っていました。場所は羽田空港のJAL安全啓発センター。1985年、御巣鷹山に墜落しバラバラになった機体が展示されています。乗員乗客520名が亡くなるというとてつもない大事故で、そのときのニュース映像を私も今でもはっきりと覚えています。
 墜落の原因は圧力隔壁と呼ばれる部分の亀裂だったそうですが、飛行機の開発・部品の製造・修理・点検のどこかで弱さや異常に気がついていれば、こんな大惨事は起きなかったかもしれません。

 グニャリと押し曲げられた座席の前で、畑村さんは「こんなに硬い鉄の塊が一瞬のうちにこんなに捻じ曲げられた。ここには子供が座っていました。」と語りました。
 「ここに来て、この客席に自分が座っていたら……自分の家族が座っていたら……もしも自分の妻が、もしも自分の子供が座っていたらと想像したら、絶対に二度とこんな事故は起こさないと思うはず。その想像力が安全な飛行機づくりを支える。そして、飛行機だけにとどまらず、さまざまな分野に影響を与える」

 「もし私だったら……」と想像することが多くの人の命を守る安全につながる。反対に想像が足りなかったために、いい加減な気もちになり大事故を引き起こすこともある。「想像力」は目に見えないものだけれど、あるとないとでは大きな違いだと気づきました。

 同じ経験をするにも、想像を深めれば、さらに多くのことを学べそうです。 今年のテーマは「想像力」。「もし私だったら……」を意識していきます。

          
ゆとりの気持ち
 
 最近、おもしろい記事を読みました。勝負ごとでわざと負けると、脳波がアルファー波やシーター波優勢となって、リラックス効果があるそうです。ジャンケンでも、ちょっと後出しをして相手を勝たせてあげるといいらしいです。もちろん、絶対に負けられないという真剣勝負のときもあるでしょうから、いつもわざと負けるわけにはいかないでしょうけれど、一度試してみるとその効果を実感できるかもしれません。執着心を持たずに、相手にゆずる気持ちを持つと、自分自身も癒されるというわけです。

 試験勉強をしているときも、ただひたすらに高い得点を取ることだけを目標にがんばるのではなく、ときどき、ふっと力を抜くことも必要だと思います。「押してもだめなら、引いてみな」という言葉がありますが、どんどん前に進むことだけがプラスになるとは限りません。ときには立ち止まったり、ときには一歩下がったりするくらいの気持ちの余裕がある方が最終的な成果は大きいものになるような気がします。

 私たちは、すぐに目の前のことに真剣になってしまいます。それは、もちろん、すばらしことなのですが、忘れてはいけないのはゆとりの気持ちです。ただひたすらにがんばるだけでは解決できない問題もあります。どんどん前進するだけでは途中で息切れしてしまうこともあります。そんなとき、立ち止まって周囲を見渡すくらいの大きな気持ち持つことが大事だと思います。

 執着心を捨ててゆとりの気持ちを持ったときに、初めて見えてくるものもあるはずです。脳波がアルファー波やシーター波になると、脳の中でこれまで使われていなかった部分が働き出すそうです。これまでは気づかなかった新たな世界を知ることで、視野が広がり、生活に潤いが増すこともあるでしょう。忙しい人ほど趣味が多かったりするのは、時間の使い方が上手なだけではなく、気持ちの使い方が上手なせいかもしれません。みなさんも、ときには何かにこだわる気持ちを手放して、肩の力を抜いてみてください。

山田純子(メグ)
 
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