言葉の森新聞
2007年9月3週号 通算第999号
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森新聞 |
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■9月17日(月)・24日(月)は、休み宿題 |
9月17日(月)・24日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987) 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php |
■知能を高める教育(その5) |
先々週号で「その2」、先週号で「その4」となっていましたが、これは、先々週号が、「その2」と「その3」を合体したものだったためです。したがって、「その3」はありませんでした。 知能を高めるのが読書だとすれば、その知能の結果が表れるの作文です。特に、言葉の森の作文は、学力の集大成になるような文章力を目標としています。 第一が構成力です。ある課題について、文章の構造を考えて書くというのは、高度な抽象力を必要とします。特に、複数の理由を書くとか、原因や対策を書くとか、複数の意見を総合化するとかいう形になると、書こうとする材料が頭の中ですっかり整理されていなければなりません。よく、頭のいい人の話は、絵や図を見るようでわかりやすいと言います。構成的に書くということは、視覚的にわかりやすい文章を書くということです。しかし、小学生のころは、この構成力が年齢的にまだ十分に育っていません。ですから、構成メモを書いてから作文を書くという作業は、小学生には無理があります。小学校低中学年のころは、むしろ中心を決めて書くことに専念していれば十分です。 第二が表現力です。名言の引用やことわざの加工は、抽象概念どうしの組み合わせが必要です。抽象概念を組み合わせる力がある人は、どういう意見にも、名言やことわざを組み合わせることができます。小学生のころには、この組み合わせる力は、たとえの力やダジャレの力として表れます。事実と言葉の組み合わせから、言葉と言葉の組み合わせや、概念と概念の組み合わせに発展していくのが表現の練習です。 第三は題材力です。小学生のころは、似た話や聞いた話を入れて書くという練習をしていますが、中学生や高校生になると、体験実例や社会実例を組み合わせて書く練習になります。この社会実例も、データ実例、伝記実例、昔話実例といろいろな種類があり、いずれも実例の背後にあるテーマを組み合わせるという高度な抽象能力が必要となってきます。 第四は長文を読んで書くという難読の部分です。単に難しい文章を読むだけでなく、その文章のテーマを考えて感想文を書くという視点で読むので、これも高度な抽象能力が必要とされます。 ですから、言葉の森で勉強しているような形の作文を自力で書ければ、その人の考える力はかなり高いということができます。これは、私が実際に生徒の作文を見ていて日々感じることです。簡単に言えば、いい文章を書ける子は頭がいいということです。そして、その文章力の土台には、高度な読書力があります。 |
■森リンの点数表示の説明 |
■項目の継続は力なり(ごだい/ひら先生) |
今回は、保護者の方向けに書きます。 「学校で書く作文と言葉の森で書く作文が違うんです。量も内容も学校のは言葉の森で書いているのほど書けません・・・。」 7月のある日、あるお母さまから質問を受けました。因みにお子さんはとっても楽しくて生きる力に満ちあふれている男の子です。この月の作文もタイヤがパンクしてしまったエピソードで「たぶん自転車がパンくってパンクしたのだろう」というように、こちらが笑いすぎてひっくり返るぐらいセンスのあるダジャレを書いてくるという具合にです。その時は、お母さんとの間では、「学校と作文教室では建前と本音というものがあってなかなかのびのび書きにくいのかなあ」という結論に終わりました。 ですが、その日布団に入ってからふと「そういえば、Aちゃんのお母さんもB君のお母さんもちらっとそんなことを言っていたなあ・・・」と思いだし・・・ガバッと布団を蹴飛ばし、勢いHPで中根先生に質問してみることにしました。 その答えは・・・「実力が付いてきたら、学校も言葉の森で書くのも同じになる」 「言葉の森の指導では、項目や字数を明確にしているので、子供もそれに沿って書くことができますが、通常の学校の指導では、そういう項目や字数の指示がないので、子どもが目標をもって書くことができないためです。 つまり、言葉の森の指導では、子供の実力+αの作文を書いていますが、学校の指導では子供の実力の作文しか書いていないということです。 これも、長年続けていくうちに、実力自体が向上してきて、学校でも同じように書けるようになります。」(中根先生) ということでした。もちろん、学校では本音が出しづらいということもありますが、作文の書き続け実力が付いてくれば多少ダジャレは軽くするにしても(笑)、学校でも同じように上手に書けるのでしょう。私は国文科出身で「論文・作文の書き方」の授業も選択で取りましたが、今思えば、言葉の森の<<項目>>で勉強していたら、もっといい卒論が書けたのになあ(ちょっと負け惜しみ^^;)と思うくらいです。(でも本当です!)正直、小学校高学年、特に中学生ぐらいになると大学生もしのぐ作品を書ける子がかなりいるのに驚く次第です。これこそ飛び級ですね。「項目の継続は力なり」です。 |
■心に伝える(まあこ/ゆた先生) |
『「落書きをなんとかやめさせたい」との願いを込めて描かれた東京・渋谷の「壁画アート」が今月に入り、無残にも汚された』という記事が読売オンライン(2007年7月31日)に載っていました。 みなさんは、スプレーのペンキで乱暴に描かれた落書きを見たことがあるでしょうか。公園の壁や橋の下・商店のシャッターなどに吹き付けられていて、この辺りには悪い人がいるのだなと、怖いイメージを持ってしまいます。 そのおびただしい落書きに埋め尽くされていた渋谷の高架下に「春の小川」をテーマにした壁画を描いたのは、今年3月のことだそうです。美しく整えられたところに落書きなんてする気が起こらない、という心理的な効果を狙ってのことでしょう。 ところが、『今月11日、黒やシルバーのスプレー缶で、アルファベット文字などが落書きされていたのが見つかった』というのです。 心ない犯人に対し、みなさんだったらどういう対応をしますか? 「落書き禁止!」という張り紙をする……見張りを立てて犯人を捕まえる……犯人を捕まえて罰金をとる……(実際に、所有者に許可を取っていない落書きは器物破損の罪にあたります) しかしこの記事は、「壁画アート」運営実行委員長の『「地域の人たちの気持ちを踏みにじる行為だが、今度は、もっときれいにすればいい」』という言葉でしめくくられていました。 犯人をこらしめるのではなく、わからないのならもっときれいにするという解決法。「私たちはこの場所をいつも見ていて、きれいにしていたいんだ」というメッセージは、騒がず静かに、絵を見る誰もに伝わります。 お店などにあるトイレで、「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます」という張り紙を見ることがあります。こう言われると、気持ちよく「きれいに使おう」と心がけることができます。 ところが、この張り紙が「トイレはきれいに!」などとう命令調だったら、「私は汚してなんかいないのに、なによっ」と、ちょっと反発したくなってしまいます。だいたい、そういう張り紙のあるトイレはあまりきれいではありません。 大音量でやって来る選挙カーに耳をふさいだことはありませんか? 混雑したイベント会場の係員が大声で指示を出せば出すほど、その場が混乱したということはないでしょうか。 歌舞伎で、休憩後の幕が上がったとき、まだ客席がざわついていました。舞台上の役者さんは芝居を始めているのですが、その声がとても小さい。実はこれはわざとで、小さな声で芝居をするとお客さんが「何を言っているんだろう」としゃべるのをやめて耳をすます、それを狙っているのだそうです。 伝えたいことがあるときに、がなり立てるだけでは届かない場合があります。イライラして大声になったり強く注意をしたり、果てには相手をこらしめなくては気がすまなくなったりします。そして残るのはお互いを悪く思う気もちです。 正しいことを言っているのに伝わらないのは、なぜでしょう。それは、自分の言いたいことだけを押しつけているからではないでしょうか。相手の心理を考えていないのです。 モーリス・ドリュオンの「みどりのゆび」で、自分に 花を咲かせる不思議な能力があることを知った男の子が最初に起こした奇跡は、刑務所を花でいっぱいにすることでした。鉄格子の向こうの汚い刑務所と囚人達。『あんなにしておいたら、囚人たちはりっぱな人にはならないだろうな、ぼくだったら、あそこにとじこめられたら、たとえわるいことはなにもしなくても、しまいにはきっととてもいじわるな人間になってしまう』(岩波少年文庫・安東次郎 訳) 花でいっぱいになった刑務所で囚人達と塀の外の人たちはどうなったでしょうか。興味のある人は読んでみてください。 花は「悪いことはやめろ!」とは言いません。けれど、心に何かを芽生えさせます。渋谷の花の壁画も、スプレーを持った落書魔の心に何かを伝えるでしょう。伝えたいことを押しつけるだけではない表現というものも、あるのですね。 |
■作文の勉強は生き方の勉強 |
「作文の勉強は生き方の勉強」――ちょっと大袈裟な題名をつけてみました。(笑)でも、つくづくそう思うのです。週に一度、対象(それは、出来事の場合もあるし、長文の内容である場合もあります)とじっくり向き合って考えを深める機会を持つということには非常に大きな意味があると思います。 低学年のうちは、出来事などに対して、自分の感じたことを書くことが主ですが、高学年になるにつれて、もっと高い視点から感想を書くことになります。5年生では「わかったこと」を書いてまとめます。つまり、体験や長文の内容から学んだことを書くわけです。6年生になると「人間にとって、○○とは……である。」という一般化の主題の勉強をします。個人的な感想を離れて、「人間」という一つ高い視点から物事を見つめるのです。中学生、高校生の小論文では、その視点はさらに高いものになっていきます。総合化の主題と言って、視点の高さを変えてまとめるような書き方の練習もします。 少し話が飛躍しますが、私は、幸せな人生を送るためには、高い視点から物事を見るということがとても重要だと思っています。何か嫌なことがあったとき、目先のその嫌なことばかりにこだわっているとなかなか明るい気持ちになれませんが、少し高い視点から見ると、視野が広がり、気持ちに余裕が持てるものです。何か問題に突き当たったとき、その問題と同一の次元であれこれ悩んだところで、たいした解決策は思いつかないでしょう。一つ高い次元に身を置くことによって、初めて見えてくるものがあるはずです。 視点が高くなると、いろいろなことについての許容範囲も広くなります。視点を高くするためには想像力が不可欠なので、さまざまな立場の人の痛みもわかるようになります。世の中には、善悪の判断だけでは割り切れないことがたくさんありますが、そんなときも視点の高い人は、何がほんものかを見抜くことができます。常識や習慣といった、固定観念に縛られることもありません。高い次元で、自由におおらかに生きることができるのです。 高い視点から物事をとらえるという姿勢は、一朝一夕に身につくものではありません。さまざまな事例に当たり、歴史上の人物をお手本にしたり、周囲の人の助言を得たりしながらも、自分なりに考えを深めることが必要です。言葉の森での作文の勉強は、そのためのとてもよい訓練になるはずです。作文の勉強は、実は、非常に奥の深いものなのです。 山田純子(メグ) |