言葉の森新聞
2007年12月1週号 通算第1009号
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森新聞 |
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■12.1週は進級試験 |
12.1週に、作文進級テストを行います。課題フォルダの字数・構成・題材・表現・主題の●印が全部できていることが合格の条件になります。(表現の項目などで「たとえ」と「ダジャレ」など二つ以上の項目が指定されている場合はどちらかができていればその項目は◎です)。キーワードと字数が採点の基準ですので、指定された字数以上で必要な項目が全部入る作文を書いていってください。中学生以上の時間制限については、今回は採点の基準にしませんが、できるだけ時間内に書き上げる力をつけていきましょう。 手書きで作文を書く人は、項目ができたところにシールをはっておいてください。 パソコンで作文を書く人は、キーワードを入れておいてください。 小学生の場合は、提出する前に、おうちの方が字数と項目シールをチェックしてあげてくださるとよいと思います。 小学2年生までの生徒は、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。10月以降に受講を開始した生徒も、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。ただし、いずれの場合も、賞状は出ますので、できるだけ字数と項目ができるように書いていってください。 |
■志望理由の書き方 |
志望理由書と自己推薦書の違いは何かということをときどき聞かれます。 違いはありません。要するに、学校側は、いろいろ書かせて、その人のことを知りたいということですから、志望理由書は理由書らしく、自己推薦書は推薦書らしく書いてあればいいのです。 しかし、書き方の形式がないと書きにくいと思うので、言葉の森では、次のようなスタイルで書くことをすすめています。 ==== 私が○○を志望した理由は三つあります。 第一は……です。(例えば、意欲や関心がある。その具体的説明) 第二は……です。(例えば、能力や適性がある。その具体的説明) 第三は……です。(例えば、将来の目標との関連。その具体的説明) まとめ(一般化の主題で、「学問とは……」「大学とは……」「人間は……」など) ==== ところが、大事なのは形式ではなく中身です。よく、この志望理由書や自己推薦書を、そつのない手紙のように書く人がいます。あらが見えないように書くことが目的なのではありません。自分のよさをアピールすることが目的です。 志望理由書を形式的なあいさつのように書こうとする人は、形容詞や副詞で字数を埋めようとします。しかし、こういう志望理由書は読み手に訴えません。不要な部分はできるだけ省き、そのかわり、限られた字数で自分の体験を入れるように書くことが大事です。 その自分の体験も、ただ体験を書けばいいというのではなく、個性・挑戦・感動・共感のある体験を書く必要があります。その際、裏づけとなる客観的なデータ(人数・年数・役職名など)があればなお説得力があります。役職は、大きい組織の副会長をするよりも、小さい組織であっても会長をしている方がアピールします。また、古い体験よりも新しい体験の方が重要です。ときどき大学生のエントリーシートで、「私は高校のときにこんなことをがんばりました」と書いてくる人がいますが、そういう書き方をすると逆に「では、大学生のときはそれ以上にがんばることがなかったのか」と思われてしまう可能性があります。 体験実例は、面接のときに聞いてほしいことにつなげるように書くのがこつです。逆に言うと、志望理由書に書いた内容はしっかり覚えておき、面接で質問があれば、更にいい話を言えるように準備しておくということです。 さて、内容がよくても、誤字があったり文章が滑らかでなかったりすれば、印象は悪くなります。中学入試や高校入試の場合は、親が手助けして書いてあげる必要があります。 学校によっては、学校長や第三者の推薦書を要求するところがあります。私(森川林)がだれかに推薦書を書くことを頼まれたら、本人に推薦書の下書きを書いてもらい、それにOKを出すような形にします。第三者の推薦書を要求するような無意味なことをなぜするのかというと、その学校におごりのようなものがあるからだと思います。 |
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■リアルとバーチャル |
中村天風氏とカリアッパ師の対話。(詳細はうろ覚え(^^ゞ) カリアッパ「後ろからオオカミが追ってきたので、急いで、崖の上に伸びている木によじ登った。やれやれと思っていると、木の上から大蛇が自分を丸呑みにしようとにらんでいる。あわてて、大蛇がつたってこられない細い蔓につかまって下を見ると断崖絶壁。そして、上を見ると、自分のつかまっている蔓をリスがかじって今にも切れそうではないか。さあ、おまえならどうする」 天風「そんなのは、簡単ですよ」 カリアッパ「ほう」 天風「とりあえずは、まだ蔓につかまっているのですから、蔓が切れたら、そのときにその先のことを考えればいいんです」 人間が生きているこの世には、さまざまな苦しみや不安があります。しかし、それを苦しみや不安として意識してしまうところにいちばんの問題があります。 現実は、変えることができません。あるいは、いずれ想念の力によって変えることができるようになるのかもしれませんが、今のところ現実はそう簡単には変わりません。変えられない現実が苦しすぎるとき、人は、意識を持たない状態に避難しようとします。「飲んで忘れる」や「寝て忘れる」の状態です。 しかし、犬や猫に目を転ずれば、彼らは、同じような苦しみを経験しているときでも、苦しみや不安の意識を持ちません。現実が苦しいことと、意識が苦しむことは違います。意識の苦しみは人間だけが味わうことなのです。 先日、飼っていたウズラが二羽かえりました。近親交配のためか、一羽は生まれつき脚が弱く、立ち上がることができません。持ち上げてやらなければ水を飲むこともできません。しかし、彼は、自分の脚が不自由なことを、まったく悩んでいないようなのです。はいつくばって、おいしそうにえさを食べ、持ち上げてやれば、これもおいしそうに水を飲みます。動けない脚のかわりに羽をばたつかせて移動します。結局、二週間ほどたったある日、暖房板と新聞紙の間にはさまって身動きが取れなくなりあの世に行ってしまいました。しかし、生きている間は、もう一羽の健康なヒナと同じように全力で生きていました。 だれの人生でも、同じような苦しみがやってきます。死なない人がいないように、苦しみのない人生などはだれにとってもありません。「どうして私だけがこんなに苦しい目に」と思う人は、ぜひ想像力をふくらませてみてください。すべての人は、同じような苦しみの中で生きているのです。しかし、その苦しみを苦しまないで過ごすことができれば、それが人間の理想とする生き方だと思います。 中村天風氏と、ある軍人の話。(これもうろ覚え(^^ゞ) 天風「その後、調子はどうだ」(その軍人が天風に難病を治してもらい、完治はしないが悪化はしないという状態になった) 軍人「おかげさまで元気にやっていますが、しかし、この痛いのだけはどうも」 天風「その病気は、痛いものだ。しかし、『痛い』と言って痛みがなくなるか」 その軍人も立派です。その後、一言も「痛い」ということを言わずに過ごしたそうです。 ここに三つの段階があります。「痛い」「痛みを感じる」「痛みを苦しむ」。 「痛い」のは、現実ですから取り消しようがありません。将来は、この痛みの原因を解決できるかもしれません。しかし、今はそうではありません。 「痛みを感じる」の方は、技術的に解決できるかもしれません。あるいは、意識の力によっていずれは解決できるようになるのかもしれません。しかし、今はそうではありません。 しかし、「痛みを苦しむ」の方は、痛みがあるなしにかかわらず、意識の問題として今すぐでも解決できるのではないかと私は思うのです。それが、リアルとバーチャルです。 だれにも苦しいことがあるように、だれにも楽しいことがあります。楽しいことに出合ったときには、リアルにその楽しさを味わい、苦しいことに出合ったときには意識をバーチャルに切り換えてその苦しさをやり過ごすということができれば、意識の上では、この世は楽しいことだけになります。 苦しみは現実にあります。その苦しみをなくそうとすることは大事です。しかし、それ以上に大事なことは、その苦しみを苦しみとして味わわないことです。難しいことだとは思いますが、このように意識するだけでも、苦しみに対する正しい立場に立つことができるのだと思います。 |
■作文を書くということ(スズラン/おだ先生) |
今月の学級新聞は、作文を書くということがどうして大事なのことと言われるのか、取りあげてみたいと思います。 学校でも、言葉の森でも「作文を書く練習は大事なことですよ」と言うのですが、疑問に思ったことはありませんか。言葉の森で作文や長文音読の勉強を始めたのは、書くことの大切さを感じているからだと思いますが、私は、とにかく文章を書くことはあらゆる場面で必要なことですし、少しでも抵抗がなく文章が書けたらいいぁと思っています。みなさんはどうでしょうか。 作文を書くことに対して、単に、「大切よ」とか、「きっと役に立つことなの」とか、「上手に書けると楽しいわよ」ということに加えて、作文を書いているうちに見つけられる大切なものが奥にあるような気がしてきました。おおげさに肩に力を入れて考えてみるのではなく、気楽に、作文を書くことがどうして大事なことなのかを考えてみましょう。 そのヒントになる文章を、先日、新聞の記事になかにみつけました。それは、角田光代さん(直木賞作家。著書多数)が、ある中学校での国語の授業をしたときのようすをまとめた記事です。 角田さんはその授業で、まず、「作文は、自分の言葉を手に入れるために必要な練習です」と言っています。つぎに、「自分の言葉を手に入れるということは、言葉を発するとき、そこに気持ちがあり、その気持ちはひとそれぞれが違い、同じものを見ても、思い浮かぶ言葉、情景の表現はみな違うはずです。その違いを表すために自分の言葉を持つことがいかに大切なことかということになってくるわけで、そのためにも、自分の言葉を探し続けてほしい」ということで結んでいます。 こういう角田さんの考えを読んでいると、作文を書くときには、自分の頭で考え出した言葉を一つ一つていねいに組み立てていくことが要求されることが感じられます。 作文を書くことは、ときには、かなりのエネルギーが必要になることがあります。書きたいことをまず決め、それをどんなふうに書いていくのかを考え、そのためには体験したことをくわしく思い出し、文章として組み立てながら全て自分で考えて決めながら進んで行かなければなりません。 初めからスラスラと、難なく書ける場合は少ないでしょう。でも、苦労して書き上げたときの気持ちは、自分の力で成し遂げた達成感があること間違いなしの瞬間だと思います。書き上げたあとの読み返しで、我ながら良く書けたと思うとき、もう少し上手に書けたかもしれないという反省のとき、いろいろあるとは思いますが、一つのことを成し遂げたあとは嬉しい気持ちいっぱいになります。 こういう作業が全部自分の言葉で成しとげられるわけですから、作文を書くときには自分の言葉をたくさん考え、しだいに表現豊かな言葉や文字が身についていくことになりそうです。 また、角田さんは「作文はタイトルと出だしが大事」とも言っています。これは、言葉の森でも「書き出しの工夫」とか「情景の結び」「題名の工夫」という項目があり、全く一致する考えですね。言葉の森では、書き方の解説も載せていますが、参考にしながら工夫をしていくと、文章が光ってくるようです。 自分の言葉を持つことは、いろいろな人に出会ったときに、自分の気持ちを分かってもらえる大切な手段になります。作文を書いたり、長文を読んだりすることでたくさんの自分の言葉を身につけ、いろいろな言葉をおり込みながら豊かな表現ができるようになりたいものです。 |
■四字熟語の正しい使い方(はるな/みき先生) |
2007年10月27日の日経新聞「プラス1暮らし委員会」に《まちがって使っていた四字熟語》というタイトルが掲載されていて、たいへん興味深く読みました。私自身、小中学生のころ、下記のような言葉を耳にするたびに、同じように誤って解釈(かいしゃく)していたことがあるからです。高校、大学へと進み、学ぶうちに、さすがに間違った使い方や解釈はしなくなりましたが、今でも多くの人が間違えやすい言葉のようです。 【小春日和】正しくは、初冬のよく晴れた暖かい日のことです。ちょうど今月末から、師走の中頃、こんなおだやかないい日がありますね。決して春先のことではありません 【意味深長】意味に深みがあり複雑なことが正しいのに、意味を慎重に答えることとして使っている人もあるようです。 【名誉挽回】名誉を回復することを、「汚名挽回」と作り変えて文章にしてしまう事例があります。 【順風満帆】船の進む方向に吹く風に向かい、帆を上げることで、物事が絶好調に進んでいくときなどにこの言葉を用いますが、「じゅんぷうまんぽ」と読み間違える人がいます。正しい読み方は、『じゅんぷうまんぱん』なのです。 【台風一過】台風が過ぎ去りすっきり晴れることの意味です。 【天地無用】梱包(こんぽう)した荷物を、天地をさかさまにしてはいけないというのが正解。どちらが上でもかまわないと意味を取り違えては、たいへんなことになりますね。 他にも数え上げればきりがありません。仲間と話すときのギャグにはなりますが、やはり、文章を書いたり、書物を読んだりする上で、四字熟語やことわざの意味を正しく理解し、使っていくことは、日本人にとって、母国語を大切にする原点なのだなと強く感じました。 |
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■限界は自らの中に(なら/なら先生) |
先日、作文の電話指導の中で、「限界」について高校1年生と話しました。その週の長文のテーマは「自分の現在の位置に満足したときに成長は止まる」というものでした。その子、Nさんはたまたま講演で話を聞いた、トライアスロンの女子第一人者上田藍さんについて、いろいろと教えてくれたのです。その講演はNさんにとって印象的だったのでしょうね。熱い思いが電話口からも伝わってきました。彼女との話が終わってから、私も上田藍さんについて、いろいろと調べてみました。日本女子トライアスロンの第一人者の彼女は、中学高校時代に水泳や陸上に取り組みつつ、その競技の選手層の厚さに悩み、トライアスロンの道を選んだそうです。挑戦・壁・限界、そして、再度の挑戦……その繰り返しと積み重ねがあって、今のポジションに彼女がいることがわかりました。決して、いつも日のあたる場所で活躍していたのではなかったのです。 私たちは、日々葛藤の中でいろいろなことを選択しています。そして、少なからず、自分の限界を推し量って、岐路に立ったときに進路を定めがちです。やみくもに猪突猛進することによって発生することのリスクを、ついつい想像してしまうのですね。新しいことや今のレベルよりも上に挑戦すること、どちらも自分にとっては未知のことです。未知のものよりも既知のものの方が、安心感が高いのは当たり前かもしれません。リスクを考慮するというのは、大人の知恵として必要な場合もあるでしょう。しかしながら、あまりにも安全策をとりすぎてはいないか? それは、人間の持つ可能性を否定することにもならないか、と、思ったのです。大げさかな。 いつもの、私事になります。1ヶ月ほど前に、とあるランニングセミナーに参加しました。そこでは、講義の後に、「ビルドアップ」という練習法を実践することになったのです。参加者をレベル別に分けて、皇居周り(5キロ)を2〜3周します。自分の通常ペースで1周走り、2周目・3周目と1分ずつタイムを縮めて走るというトレーニングです。私は、一番遅いグループに入りました。……結果は、さんざんなものでした。グループの中でも最後尾(つまり、全体の最後!)。おまけに、走っているうちに、汗と涙と鼻水でぐしょぐしょ。吐き気までもよおしてきます。最後は、ボロ雑巾のような状態でした。後で聞いてみると、想定時間よりも、1周2分くらい速く走ったとのこと。講師はにこやかに言いました。 みなさ〜ん! 安全にマイペースで走るのも大切なことですけれど、 それでは壁を越えられませんよ〜!(あくまでも、にこやかに) そのときには、ただただ力尽きて何も考えられなかったのですが、なんと! その後の練習では、5キロ走のペースが上がっているのです。 私は、自分で自分のペースをここまでと決めて、少しでも走れる距離が伸びれば、それで満足していたのですね。何のことはない、自分で自分の限界を決めていたのでした。自分の一番苦手な運動だからこそ、こういうことに気付かされるのだなぁ、とも思いました。できれば、他人の手を借りずとも、こういう心境にたどり着ければいいのですが、なかなかそうはいきません。多くの人の助言や励ましをいただいて、自分を見つめる機会を得られれば、と思います。そして、本来的には、人を指導する立場にある作文という分野でこそ、今回のような気づきにめぐりあわなければならないのですね。 みなさんも、作文を書くときでも、勉強をするときにでも、「もうチョイ、がんばる」ということやってみてましょう。「目標字数1000字? 無理、無理。」ではなくて、「行がえでも会話を入れてでも、同じことの繰り返しでも、とにかく行を埋める」でもいいのです。ヘロヘロでもベロベロでも、カッコ悪くてもいい。限界を突き抜けた人にこそ、一つ上の限界が与えられ、そして、それに悩み、突き破る資格を与えられるのだと思います。 |