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  不況に備えて奨学生制度を検討中
  作文問題貝のページが新しくなりました
  ススキ10.1週のヒントを一部訂正
  今はできなくても(なら/なら先生)
  草木をそめて四季を味わう(たんたん/はらこ先生)
  つながっている時(はち/たけこ先生)
  チョコレート(モネ/いとゆ先生)
 
言葉の森新聞 2008年10月3週号 通算第1051号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
不況に備えて奨学生制度を検討中
 不況の深化により、生徒のみなさんのご家庭で、倒産や失業まで行かなくても給料減少などの問題が今後起きてくることが考えられます。そこで、言葉の森では、受講料の支払が負担になった場合、奨学生制度を設けることを検討しています。
 不況は、長期化するといっても10年程度だと思われますで、その期間だけ受講料の納入を保留していただき、不況から回復して余裕ができてからその期間分の支払をしていただければよいという形です。これは、勉強の機会均等を保障するための措置です。
 ただし、コストはできるだけかけないようにしたいと思いますので、奨学生の場合、山のたよりや言葉の森新聞はウェブで見ていただくようになると思います。また、奨学生の場合は、作文の添削もウェブで見ていただくような形になると思います。したがって、奨学生となった方は、インターネットの接続だけは確保していただくようお願いします。(学期ごとの教材の郵送や、毎週の先生からの電話は、これまでどおり)
 事態はまだそれほど差し迫ってはいませんが、いつ大きな問題が来てもいいように、準備だけは進めておきたいと思っています。
作文問題貝のページが新しくなりました
 作文問題貝のページは、これまでフラッシュで作成していました。新しいページは、縦書き表示のHTMLで作成しています。そのため新しいページは、今のところ縦書き表示のできるブラウザでなければ表示できませんが、今後横書きでも表示できるようにしていきたいと思います。
 これまでのページは、読む速さを測定するだけでしたが、今度のページは、穴埋め問題ができるようになっています。
http://www.mori7.com/kai/index.php
ススキ10.1週のヒントを一部訂正
 「『かみさまにききたいこと』も……」以下の文章は、昔の10.1週の課題が、「●秋を見つけたこと、かみさまにききたいこと」となっていたためです。
 「かみさまにききたいこと」は、実際の出来事が入りにくく長く書きにくいため、10.1週の課題は、現在の「●秋を見つけたこと、朝のできごと」に変わりました。しかし、ヒントだけが昔のままになっていました。
 また、「みなさんにとってもっと身近なものは、アメリカセンダングサやオナモミやイノコヅチなどでしょう。カラスウリなどの実も、野山に行くと見つかるかもしれませんね」の部分がよくわからないとの指摘がありました。今の子供には、あまり身近ではなかったのかもしれません。(^^ゞこれは、図鑑で調べていただくとわかると思います。

   
 
今はできなくても(なら/なら先生)
 「琴線に触れる」という表現がありますね。心の奥深いところにある感情に響くというときに使います。ある言葉が自分の琴線に触れたということは、その言葉が響くような心理状態にあるということかもしれません。同じ言葉でも、何の感慨も抱かずに終わることもあるのですから。先日、秋元康氏(作詞家・総合プロデューサー)がある夕刊紙に書いていた文章が、私の琴線に触れました。引用しますね。
   *  *  *  *  *
 人は、誰も、あの日、やり残したことがある。それが不本意だったとしても、振り返ってみれば、あの頃では時期尚早だったと知ることも多い。言い方を変えれば、人は何十年か後の自分のために、あえて、やり残したことがあるのだ。
   *  *  *  *  *
 やり残したことというのは、あきらめたこと・できなかったことと考えてもいいでしょう。受験勉強のために、好きだったのに続けられなくなった習いごとかもしれません。一生懸命やったつもりでも上達しなくて、嫌になってしまったスポーツかもしれません。私たちはあまり器用ではなく、あれもこれも同時にうまくこなせるわけではありません。環境が整わないこともあるでしょう。そんな中で、何かを選び切り捨てて日々を生きています。時に、切り捨てたことは後悔と結びついてしまいます。
 秋元さんの文章を読んだときに、「やり残したこと」とは「種まき」ではないかと、私なりに思いました。どんな土地でも、種をまかなければ、何も芽生えてはきません。まいた種がいつ芽を出すのかはわかりませんし、もしかしたらずっと種のままで終わるかもしれません。それでも、種をまくことによって、いつかは何かが芽生えるはず。私たちが普段あれやこれやとやったり考えたりしていることは、種まきの作業だったのですね。
 そう考えると、学校のたくさんの科目(興味のわかないものもあるかな)、読書や習い事、全て種まきだと思えばいいのかもしれません。まかぬ種は生えぬ。好きでも嫌いでも、そのことに接したこと自体が種まきで、大切なことなのです。接したことがないことをやろうとしても、その入り口を見つけるのはかなり難しいからです。できないこと・あきらめたことがあっても、決して恥じることはなく、それは何十年か後の私のためにとってあることなのだと思いましょう。
 秋元さんの言葉が心に響いたのには、理由があります。私事ですが、8月に身内を亡くし、今も心身ともくたくたです。生活は一変しました。そんな中で、少しでも今までの生活に戻そうと思ったときに、頭に浮かんだのが2年ほど前から始めたランニングでした。学生時代大嫌いだったスポーツ、極力避けていた走るということ、それが今の自分の支えの一つになるなんて! そうそう、秋元さんの文章の題名は『やり残したものは、宝もの』です。私は、宝ものを手にしていたのですね。
草木をそめて四季を味わう(たんたん/はらこ先生)
 私がいま夢中になっているのは、草木ぞめです。私たちの身の回りには化学薬品で色をつけたものが多いですが、昔の人は草や木の実などの植物で服をそめたりしていました。白いガーゼハンカチなど「ちょっとださいかな」と思うアイテムでも、草木ぞめで色をつけると、なんともかわいいハンカチに変身するのですよ!
 やり方はかんたん。まず、なべに水と草花をいれてグツグツ煮出します。植物の色が出たら、草花をとり出し、そめたい布やガーゼを入れて、さらにグツグツ煮るだけです。洗たくをしたときに色落ちしないように、塩か酢を少々入れるのも忘れずに。しぼって、かわかして完成です(=^v^=)/。玉ねぎの皮でそめると、しぶいオレンジ色。ぶどうの皮でそめると、うすいむらさき色にそまります。
                      
 草木ぞめのおもしろいポイントは、植物の見た目そのものの色とはちがう色にそまることがある点です。緑色をしたカモミールの葉でそめたのに、できあがりは黄色になったり、玉ねぎの皮といっしょにさびたクギをいれてそめると、深い緑色になったり。まるで「自然のマジック」みたいです。
 とくに、サクラの木がすごい! 2月か3月、サクラが咲く直前の枝を切ってそめると、枝は茶色なのに、なんとピンク色にそまるのです。枝の中に、サクラ色をいっぱいたくわえて、花開くそのときをじっと待っているのですね。
                      
 昔の生活を想像すると、季節の移り変わりをいまよりも強く感じながら生活していたのではないかと思います。ただ「暑い」「寒い」だけでなく、雲の形や空の高さ、月の満ち欠け、植物の生え変わりなどと向き合いながら、自然の呼吸に合わせて生きていたのでしょう。しかし私たち現代人は、カレンダーをめくることで、ただなんとなく四季をやりすごしている気がします。せっかく四季のある日本に生まれたのに、なんだかもったいない。人間も自然の一部なのですから、もっと自然によりそって生きていきたいものです。
                      
 四季おりおりの草花で布をそめ、季節感に包まれて生活をする。なんとも幸せだなぁと思っていたのですが・・・。わが家の夕食時の会話。
私「ホウレンソウをゆでた汁でガーゼをそめたら、こんなかわいい緑になったよ」
夫「ふーん。それで、そのホウレンソウは料理に出ないの?」
私「あっ、草木ぞめに気をとられて、おひたし作るの忘れた」
息子「じゃあ、ガーゼを食べればいいんだ」
 うーむ。わが家にも、食欲の秋がやってきました(^w^)。

    
つながっている時(はち/たけこ先生)


 今私の生徒さんは、全員が平成生まれだと思います。
 平成の前は、昭和ですよね。これはみんなわかると思います。おとうさん、おかあさんが昭和生まれではないですか?
 ではその前は。大正ですね。その前は明治。このあたりは、何年生くらいから知っているのでしょうか。明治の前は慶応。このころが、江戸時代の最後、いわば幕末、と言われる時代ですね。
 慶応の前もずっとずっと年号があったのですが、さすがに私も知りません。クイズ王をめざしている人や歴史好きの人だと知っているかもしれませんね。
 江戸時代と明治時代の違いは、低学年の生徒さんでもわかるかな? まず一番は見た目ですね。ちょんまげや刀、着物を着たさむらいがいたのが江戸時代。さむらいがいなくなったのが明治時代ですね。
 けれど、江戸から明治に年号がかわったからと言って、いきなり全員がすぐに、考え方がかわったり、暮らし方がかわるということはないとは、想像がつくと思います。たとえば町民の人たちは、ちょんまげは切っても、家や生活はすぐに、アパートに住んだり、テレビを見たり、というふうにはなりませんよね。江戸からひきついだ暮らしが、ゆっくりゆっくり変わっていったのだと思います。

 しかし、そんな江戸の風情がいちどきになくなったときがあったそうです。始めが、大正12年の関東大震災。ここで、たくさんの家や人がなくなりました。次が、昭和20年の東京大空襲。ここでさらに家や人がなくなり、決定的なものとなるかに思われました。江戸から流れていた時が、ぷっつりと切られてしまったのです。それはまるで、大木が根元からざっくり切られて倒されたようなものだったのではないでしょうか?

 ところが、今日本では、江戸の暮らしがまた見直されているそうです。江戸時代を描いた小説がたいへん人気で、若い作家もたくさん出てきているそうです。私も畠中恵さんの『しゃばけ』シリーズなど大好きです。なぜかというと、まず、江戸の町というのは、たいへんにエコで環境にやさしい町だったとか。ごみは、灰やはなをかんだ紙、はてはぬけ毛まで専門に集める人がいて、それをまた利用する人に売ったりしていたのだそうです。また、江戸の人情というものも見直されています。「江戸しぐさ」という本が今何冊か出ているように、道のゆずりあいや、人との対し方など、江戸の町の人たちはたいへん高度な公衆道徳、マナーをもっていたそうです。実はこのマナーの高さというのは、文明の高さを表す尺度の一つといえ、それだから、幕末に日本に来た欧米人は、江戸の町の清潔さ、人々のマナーの高さ、子どもに対する愛情深さに深く感銘を受けたのだそうです。こういう点をまた見直そう、という動きが出ており、また、東京の街に江戸のなごりを見るという観光の1日ツァーなどのもよおしもたくさんあります。

 私が「江戸」そのものを体験するのは、歌舞伎を観に行くときです。歌舞伎座の中に入ると、江戸時代から続いている伝統が、場内になんともいえず不思議な空気をかもしだしていて、幕が引かれる前からもう、江戸にタイムスリップしたような感覚になります。私の娘は帰国子女なのですが、高校生のときたまたま歌舞伎に出会い、すっかり好きになってしまいました。海外育ちだからこそ、新鮮な文化としてうけとめたようです。そしてなんと10月には、浅草に、江戸時代と同じ芝居小屋を建てて歌舞伎を上演する「平成中村座」という催しもあります。これがまた、一番安い席でも1万円以上なのです。タイムマシン乗車料としては、みなさんは高いと思いますか? こんなものだと思いますか?(笑)
チョコレート(モネ/いとゆ先生)
 朝晩の涼しさに、秋の訪れを感じる今日この頃ですね。「天高く 馬肥ゆる秋」という言葉どおり、最近やたらとお腹がすいてたまりません。
 毎年、夏の暑さが過ぎると無性に恋しくなるのが甘いもの、特においしそうなチョコレートを見るとつい買いたくなってしまいます。私は、子供の頃どんなに泣きじゃくっていても、チョコレートを1かけ口に入れてもらうとすぐに泣き止んだという話を母から聞いたことがあります。大人になった今でも、気分が落ち込んでいるときや疲れて頭がぼうっとしているときなどにチョコレートを食べると、何だか元気が出て笑顔が戻ってくるような気がします。
 山で遭難した人がチョコレートを食べて生き延びたという話は、聞いたことがありますよね。また、チョコレートを食べてから陸上競技にのぞむと、「ヨーイ、ドン」からスタートまでの反応時間が短くなるという実験結果も出ているそうです。
 チョコレートの原料であるカカオに含まれているテオブロミンには、疲労回復効果や、集中力や思考力を高めやる気を出してくれる効果があるそうです。また、コーヒーなどに含まれるカフェインと同じ仲間ではありますが、その興奮作用はずっとやわらかいものなのだそうです。
 勉強やスポーツの前にチョコレートで栄養補給というのも、理にかなっているようですね。
 ところで、日本のチョコレートの約7割が西アフリカのガーナ原産のカカオからできているそうですが、以前テレビの番組でガーナの国の様子を見ていて、はっとさせられたことがあります。
 カカオ畑で一生懸命に働いているまだ幼い子供たちに「本物のチョコレートを食べたことがありますか?」と質問したところ、「見たこともありません。」と答えたのです。先進国がカカオを大量に買い占め市場を操作したため、値段が暴落してしまい、農民たちがいくら必死に働いても生活は一向に良くならないのだそうです。
 エチオピアのコーヒーやケニアの紅茶も同じように、アフリカの国々は、先進国の嗜好品を作ることによりどんどん貧しくなっていくという現実があります。日本には、いたるところにあふれているような食べ物が、その原産国の国民の口には少しも入らないとは、何とも複雑な気分ですね。
 秋の夜長のコーヒータイムに、1枚のチョコレートに込められた遠い国の人たちの様々な気持ちを考えました。
                             
 
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