言葉の森新聞
2008年11月2週号 通算第1054号
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森新聞 |
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■小1の9.4週の読解問題8番を訂正 |
小1の9.4週の読解問題8番で、選択肢の3と4が逆になっていました。 正解は、「いちばん大きいメスのクマノミが死ぬと、次に大きいオスがメスになる」でした。 11.1週の山のたよりで点数を修正しています。小1のみなさん、ごめんね。<(_ _)> |
■音読や暗唱でよくなる頭 |
音読をしていると頭がよくなります。そのことを食べ物との対比で考えてみます。 食べ物は、よくかむと消化しやすくなります。たとえば、肉を食べると、たんぱく質からアミノ酸へと分解されていきます。よくかむことによってサイズが小さくなり、酵素が働きやすくなることによって分解されるようになります。食べ物は、分解されて初めて自分の体内に吸収されます。 文章も同じです。よく読むことによって、表面上の言葉の理解からより深い理解に進んでいきます。 表面上の理解とは、概要を理解して、それを自分の生活に役立たせるような理解の仕方です。文章を読んで理解して、そこに書かれている内容を自分のアクションに結びつければ、それでその文章の役割は終わります。これを使い切りの文章と言ってもいいかもしれません。私たちが通常読む文章は、ほとんどこういう読み方です。 これに対して、何度も繰り返し読む文章では、それぞれの言葉の背後にある、言葉の持つ文化も含めて理解できるようになります。 たとえば、「出口のないトンネルはない」という言葉があります。これを何度も反復して読んでいると、出口にもいろいろな出口があるということが思い浮かんできます。また、トンネルにもいろいろなトンネルがあるということが感じられてきます。さまざまな出口とさまざまなトンネルがあるということが、自分の経験や社会の文化の蓄積から、豊富な枝葉を伴って理解されてくるということです。 このような理解の仕方をすると、文章が生きた言葉となり、自分の血や肉となって吸収されていきます。 ところが、このように何度も繰り返して読む深い理解の仕方の勉強は、なかなか続けることができません。なぜかというと、音読や暗唱そのものが自己目的化しているような勉強の仕方では、その単純な勉強に飽きてくるからです。 言葉の森では、暗唱、音読した文章を作文や小論文に生かすという形で発展させていくことができます。音読によって、頭がよくなったということが、作文によって確かめられるという仕組みになっているのです。 |
(上記の記事の内容は、マインドマップ風構成図をもとにテキスト化したものです) |
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■赤ちゃんが初めて話す言葉(よう/まえ先生) |
みなさんがこの世に生まれてきて、初めて覚えた言葉は何だったでしょう。 赤ちゃんが一生懸命、「マーマー」「ブーブー」と言っているのを聞いたことがある人も多いと思います。私たちが使っているような、はっきりした形ではないものの、赤ちゃんは少し大きくなると、言葉を使って意志を伝えようとしているのです。そういえば、うちの子は「バナー(バナナ)」だった気がするなあ! 先日、NTTコミュニケーション科学基礎研究所(京都府精華町)が「赤ちゃんが初めて話す言葉」についてまとめたそうです。20位までを抜粋してみましょう。 1位は「まんま(ごはん)」。なるほど、やっぱりごはんは大切ですね(笑)。ママは4位、なかなか健闘しています♪ パパは8位、やっぱり「パピプペポ」は言いにくいのでしょうね。ちなみに「ワンワン」は6位。パパはワンワンに負けているのかと思うとなんだかかわいそうな気がしますが……。「バイバイ」は9位、これは言葉より身振りを先に覚えるのかもしれません。以下、「ニャンニャン」は14位、うちの娘が初めて覚えた「バナナ」は19位でした。 上位50位を分類してみると、あいさつなど社会的な言葉が16語、普通名詞13語、性質を示す言葉8語、家族など人を示す言葉6語、動作語4語、代名詞・疑問詞3語というように分類されるそうです。ちなみに、名詞は動詞の約5倍。韓国や中国では名詞は動詞の約2倍、英語圏では約12倍だそうで、各国で覚える言葉の種類が違っていることが分かりますね。小林哲生研究員の説明によると、「英語圏では親が早くから物の名前を覚えさせようとする一方、アジアでは情緒的な共感を重視する傾向があるようだ。文化圏ごとの育児スタイルの違いが、幼児の言葉にも影響しているのではないか」ということなのだそうです。こんなに小さい時から、文化の違いが大きく出るなんて、とても不思議ですね。 つまり、日本人と外国人では、同じものを見ても、そこから発する言葉、ひいては気持ちが全く違うのだということなのです。 例えば、赤ちゃんと一緒に、今の時期、公園に出かけるとします。木々の葉が色づき始め、どんぐりが落ちています。夕方になれば、コオロギやスズムシのきれいな鳴き声が聞こえてくる……、そんな情景を思い浮かべてください。きっと、私なら、 「ほら、葉っぱがきれいだねー。かわいいどんぐりがいっぱい落ちているよ。虫さんたちのお歌、上手だねー」 と赤ちゃんに話しかけるでしょう。上の結果を踏まえて、アメリカ人がどうやって話しかけるか想像してみます。 「これは、イチョウ。そして、もみじ。落ちているのはどんぐり。鳴いているのはコオロギとスズムシだよ」 ……あくまで想像なので(笑)、実際は違うのかもしれませんが、「きれい」や「かわいい」「じょうず」という言葉をたくさん使って話すのは日本人ならではの感覚なのかもしれません。 また、あいさつなど社会的な言葉が一番多く覚えられているのも興味深いですね。「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」「どうぞ」「さようなら」……、礼儀を重んじる日本文化ならではの挨拶の言葉がたくさんありそう。 外国語に比べて複雑な日本語。 でも、その複雑さゆえの美しさを日本人は大切にしていかなければならないのかもしれません。 (参考 毎日新聞) |
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■「まるで」の花道(かいす/きあ先生) |
わが家は最近「まるで」ブームです。私がみなさんに「たとえ」の説明をするのを、いつもそばで聞いている小4の息子が始めた遊びなのですが・・・ 「今日、まるで白いくつ下をはいたようなネコを見たよ」というかわいらしいものから、「まるでロナウジーニョが、おなかいっぱいごちそう食べて、すいみん十分でけったようなシュート」(どんだけスゴイんだ!)という、どえらい(笑)ものまで出るわ出るわ。 私にも「まるで」を求める息子。ある日、大切にしていたコップを割ってしまった私に近づいてきて「まるで?」と挑戦的な目で問いかけました。 「うう〜ん・・・まるでダイアモンドダストのようなコップのかけら」「50点」「まるで(捨てないで〜)と叫んでいるような破片」「今イチ〜」「じゃあ、じゃあ、まるで3日間ごはんもノドを通らないような気持ち」「・・・おもろない」 がああ〜ん!! ということで(笑)みなさんの作品のなかにも、キラリと光る「まるで」がたくさんありますので、少しだけ紹介したいと思います。 ☆「まるで、カバのように大きな口をあけて歌います。」(M・Hさん)みんなで歌をうたうのは楽しいね。想像するとおもしろいでしょう? ☆「まるで、小さなスプーンみたいなおたまじゃくし」(N・Aさん)形を見事にたとえていますね。かわいい姿が目に浮かびます。 ☆「まるで、おわらいげい人みたいな先生です。」(N・Sさん)こんな先生がいると学校へ行くのも楽しいでしょうね。 ☆「まるで、なっとうのようにベタベタくっついた」(N・Kくん)おにぎりを作ったら、手がごはんつぶだらけになったんだって(笑) ☆「目玉焼きは、まるでアメーバーのような形でトロトロしています。」(T・Kくん)始めて挑戦した目玉焼きが・・・ ☆「まるで、水道のじゃぐちをキュキュとひねったような声で」(H・Tくん)赤ちゃんが笑ったときの声。かわいらしさが伝わりますね。 ☆「まるで、試練を乗りこえたハリーポッターのよう」(N・Aさん)生き残った金魚をたたえた、うまいたとえです。 ☆「まるで、カムパネルラになったような気分」(N・Tくん)プラネタリウムを見て、銀河鉄道の夜(宮沢賢治)の登場人物になったような気持ちになったんだね。 ねっ! みんな素敵でしょう? この「まるで」を見ていると、キラリと光るたとえをつくるコツがあることに気づきます。何かを何かにたとえるとき・・・ ◎形・大きさに注目!(スプーン、大きな口、アメーバー) ◎動きに注目!(おわらいげい人、カバの口) ◎音に注目!(じゃぐちをキュキュ) ◎役割に注目!(ハリーポッター、カムパネルラ) ◎気持ちに注目!(カムパネルラになった気分) これで、たとえはバッチリ! みなさんもいろんな「まるで〜」を考えてみてくださいね。 |
■ともだちってなんだろう(にこにこ/いわぱ先生) |
ともだち、といったときに、だれをおもいうかべますか。クラスの誰かでしょうか。ひとりですか。たくさんですか。 私は小さいころ、ともだちがあまりいないような気がして、なんとなくそれが「いけないこと」にも感じていました。 先日、すっかり色あせた新聞の切り抜きが出てきました。6年生のときに書いた、自分の作文です。新聞に小さくのったのですが、父が切り抜き、とっておいてくれたものでした。言葉の森のみなさんには、お手本とはとてもいえませんが、その時の私のしょうじきな気持ち、そのものです。みなさんといっしょに、ともだちについて考えてみたくなりました。少しおつきあいくださいね。 友人について 友人というのはとてもいいものだと思う。私が、本当に親友といえる人に出会ったのは今年だ。みんなは、幼稚園ぐらいから仲の良い友人がいると思う。私に友人ができなかったのは、父の転勤が多いためだ。(略) 小学校に入学したとき、級友たちには小さい時からの友人を持っている人が多かった。私はただ話をするぐらいで、本当に仲の良い友人はできなかった。 しかし、今年になって、何でも語り合える友人ができた。もちろん、私のほかにも、その人には友人がいる。私だけの友人ではない。けれども私は今、とても充実した毎日を送っている。なんでも話し合うことができるからだ。 友人というのはただ、いつもいっしょにいて、よく遊ぶというのではなく、うれしいときにはともに喜びあい、悲しいときや、困ったときには、ともにはげまし合い、相談にのってあげるものだと思う。だから、友人として一番いけないことは、うそをついたり、かくしごとをしてごまかしたりすることだと思う。 これから先、上の学校に進んだり、社会に出たりすると、また、ちがう友人ができると思う。どんな人と友人になっても、私はその友人を信らいして、何でもうちあけようと思う。だから「友人」というものはなくてはならない大切なものだと思う。 ( 山陽新聞 岡山版「こどもの広場」104号 一部抜粋 ) そしてこの記事をみつけたその数日後、ぐうぜんにこんな詩を目にしました。 ともだち 谷川俊太郎 (原文はすべてひらがなではないかもしれません。) ともだちって ともだちって かぜがうつっても へいきだって いってくれるひと。 ともだちって いっしょに かえりたくなるひと。 ともだちって おかあさんやおとうさんにもいえないことを そうだんできるひと。 ともだちって みんながいっちゃったあとも まっててくれるひと。 ともだちって そばにいないときにも いま どうしてるかなって おもいだすひと。 (略 このあと、まだずっとすてきなことばがつづきます。) この詩を読んで、6年生のときの自分に、「ほら、あなたの考えで大丈夫みたいだよ、安心してね」と心でそっと言ってあげたのでした。当時読んでいたらどんなにかほっとし、元気づけられたことでしょう。 大人の今になって、また、あらたな考えも生まれてきました。「何もかもうちあけるのが友達だろうか。必ずしもそれはやさしいとはいえないかもしれない。」という気持ち。また、「ともだちはいなくっても大丈夫。べつにいけないことじゃない。」という、なんだかふしぎな気持ちです。そう思ってみてはじめて、「友だちがいない」という気持ちから、ふうっと楽になって、自然と自分らしく、まわりの人とすごすことができるのです。○○さんはともだちで、△△さんはともだちじゃない、というふうにいちいち考えなくなりました。今思う、私にとってのともだちとは。 「私のかっこわるいところを見られても、まあいいか、と思える相手。」 「私と考えがちがっても、それをきいて、うんうん、そういう考えもあるよね、と思える相手。」 「もし、私から何かをあげるばっかりでも、私はそんした、と感じない相手。」 「何年ぶりに会っても、いつ会っても、私のままで、楽に会える相手。」 そんなかんじです。そしてともだちはしぜんとふえていきます。ときには、だんなさま(夫です)が、いとこが、会ったばかりの人が、ともだちになったりするのです。 だから、みなさんも安心して、今のあなたのままで、いてくださいね。それで、たいてい、じゅうぶん、だいじょうぶ。 |