ともだち、といったときに、だれをおもいうかべますか。クラスの誰かでしょうか。ひとりですか。たくさんですか。
私は小さいころ、ともだちがあまりいないような気がして、なんとなくそれが「いけないこと」にも感じていました。
先日、すっかり色あせた新聞の切り抜きが出てきました。6年生のときに書いた、自分の作文です。新聞に小さくのったのですが、父が切り抜き、とっておいてくれたものでした。言葉の森のみなさんには、お手本とはとてもいえませんが、その時の私のしょうじきな気持ち、そのものです。みなさんといっしょに、ともだちについて考えてみたくなりました。少しおつきあいくださいね。
友人について
友人というのはとてもいいものだと思う。私が、本当に親友といえる人に出会ったのは今年だ。みんなは、幼稚園ぐらいから仲の良い友人がいると思う。私に友人ができなかったのは、父の転勤が多いためだ。(略)
小学校に入学したとき、級友たちには小さい時からの友人を持っている人が多かった。私はただ話をするぐらいで、本当に仲の良い友人はできなかった。
しかし、今年になって、何でも語り合える友人ができた。もちろん、私のほかにも、その人には友人がいる。私だけの友人ではない。けれども私は今、とても充実した毎日を送っている。なんでも話し合うことができるからだ。
友人というのはただ、いつもいっしょにいて、よく遊ぶというのではなく、うれしいときにはともに喜びあい、悲しいときや、困ったときには、ともにはげまし合い、相談にのってあげるものだと思う。だから、友人として一番いけないことは、うそをついたり、かくしごとをしてごまかしたりすることだと思う。
これから先、上の学校に進んだり、社会に出たりすると、また、ちがう友人ができると思う。どんな人と友人になっても、私はその友人を信らいして、何でもうちあけようと思う。だから「友人」というものはなくてはならない大切なものだと思う。
( 山陽新聞 岡山版「こどもの広場」104号 一部抜粋 )
そしてこの記事をみつけたその数日後、ぐうぜんにこんな詩を目にしました。
ともだち 谷川俊太郎 (原文はすべてひらがなではないかもしれません。)
ともだちって
ともだちって かぜがうつっても へいきだって いってくれるひと。
ともだちって いっしょに かえりたくなるひと。
ともだちって おかあさんやおとうさんにもいえないことを そうだんできるひと。
ともだちって みんながいっちゃったあとも まっててくれるひと。
ともだちって そばにいないときにも いま どうしてるかなって おもいだすひと。
(略 このあと、まだずっとすてきなことばがつづきます。)
この詩を読んで、6年生のときの自分に、「ほら、あなたの考えで大丈夫みたいだよ、安心してね」と心でそっと言ってあげたのでした。当時読んでいたらどんなにかほっとし、元気づけられたことでしょう。
大人の今になって、また、あらたな考えも生まれてきました。「何もかもうちあけるのが友達だろうか。必ずしもそれはやさしいとはいえないかもしれない。」という気持ち。また、「ともだちはいなくっても大丈夫。べつにいけないことじゃない。」という、なんだかふしぎな気持ちです。そう思ってみてはじめて、「友だちがいない」という気持ちから、ふうっと楽になって、自然と自分らしく、まわりの人とすごすことができるのです。○○さんはともだちで、△△さんはともだちじゃない、というふうにいちいち考えなくなりました。今思う、私にとってのともだちとは。
「私のかっこわるいところを見られても、まあいいか、と思える相手。」
「私と考えがちがっても、それをきいて、うんうん、そういう考えもあるよね、と思える相手。」
「もし、私から何かをあげるばっかりでも、私はそんした、と感じない相手。」
「何年ぶりに会っても、いつ会っても、私のままで、楽に会える相手。」
そんなかんじです。そしてともだちはしぜんとふえていきます。ときには、だんなさま(夫です)が、いとこが、会ったばかりの人が、ともだちになったりするのです。
だから、みなさんも安心して、今のあなたのままで、いてくださいね。それで、たいてい、じゅうぶん、だいじょうぶ。
|
|
枝 6 / 節 15 / ID 13014 作者コード:iwapa
|