「せんせーい。」
大きな声で呼びかけられると、こちらも元気になって笑顔の声でこたえます。今年の夏も、ある進学塾で夏期講習の授業を担当して、5年生と6年生の国語を指導しました。おかげさまで元気で若々しい夏を過ごすことができたと感謝しています。6年生は覚悟の年でもありますから、とても大人しいのですが、5年生は腕白盛りで教室が共鳴して揺れだしそうなパワーでした。そこで、こんな質問が出たのです。
「せんせー。『洋食』ってなあに?」
小説文の読解の授業をしていて、順番に音読をしてもらっている時のことです。課題の文章は少し古い時代設定のお話でした。
「え? 洋風のお料理ということですよ。」
知らないのかな? と、少し意外に感じながら答えました。
「洋風って?」
と、生徒くんはまだまだ不審げな表情です。
「カレーとか、オムライスとか、スパゲッティーとか・・・。」
例を挙げながら、私ははっと気づきました。こういったメニューは、目の前の子どもたちにとっては少しも「洋風」ではありません。和食ではないにせよ、普段のお馴染みの大好きメニューにちがいないのです。
「カレー粉がインドから来るから? パスタがイタリア製だから?」
今度はかなり厳密に聞いてきました。「原材料が輸入品だから洋風である」と解釈したようです。
「うーん。材料が外国産だと言い出したら、みなさんが食べているものはたいがい『洋食』になっちゃうね。たとえば、『てんぷらそば』は和食ですが、使われている蕎麦粉も海老も、小麦粉も輸入されるものが多いのよ。」
なんだか、社会科の授業みたいになってきました。「そうだそうだ、輸入大国なんだぞ。」とか「食べたことないの?」とか、わいわい大騒ぎになってきたので、私は懸命に「昔の食事風景」を説明していきました。「先生が、まだ小さいころはね。レストランで食べるハンバーグがお洒落でね・・・云々。」
なるほど、小学校5年生11歳の子どもたちと、昭和生まれの○○歳の私との間には、異次元に近いような体験の違いがあったのだと分かりました。だから「洋食」というごく簡単な言葉の理解も、まったく異質だったのです。ここで器用に、「洋食」の持つ一種あこがれに似た贅沢なニュアンスをつかんで小説を読み進めることができるか否かが、その後の設問の解答に関わっているわけです。そして、クラスの生徒の中には、ちゃんとその言葉の雰囲気をつかんでいる子もいるのです。おそるべし。おそらく、それは読書体験による年齢差ということになるのでしょう。
また、宿題では「単語を使った短文作成のドリル」を出しており、その答え合わせに、これもまた難航しました。やっかいだったのが「ともすると」を使った短文作成です。
生徒たちは辞書を引いて書こうとしたらしいのですが、「ともすると」は辞書に「(副)どうかすると。ややもすると。ともすれば。」などと出てくるのですから、よけいにわからなくなる始末です。使ったこともなければ、聞いたことも読んだこともない言葉は、外国語より難しいようです。生徒が考えてきた珍回答を笑うに笑えず、自分の説明能力の限界を悟った私でした。言葉の能力とは、必ずしも辞書を引いてするものではないのです。使ってみることが大切です。
私たちはともすると、言葉で考えるのだということを忘れがちである。
言葉の体験をふやすことは、かなり重要なことです。この夏の実感でした。
きら
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枝 6 / 節 13 / ID 11597 作者コード:kira
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