森リンの哲学的基礎

 私たちが触れることのできるあらゆるものの総体を世界と考えるならば、世界は連続性を持っています。水と油のように不連続に見えるものもありますが、それは不連続という形で連続しています。不連続性は、連続性の一つの形態です。
 ある分類の仕方やものの見方が真実に近いかどうかは、その分類の仕方がもたらす結果によっても評価できますが、その分類の仕方が、他の分野の分類の仕方と共通点や連続性を持っているかどうかによっても評価できます。
 さて、世界に存在するものの最も根本的な概念は、存在物です。存在物は主語で、存在は述語です。存在物は存在するという行為を伴うことによって初めて存在します。存在するという行為は、存在しないことつまり無を否定することによって成り立ちます。言い換えれば、存在物は存在と無の矛盾した統一として存在しています。
 存在と無の統一は、四つの面を持っています。第一に存在物は外部の無に抗することによって存在します。第二に存在物は内部の無を不断に否定することによって存在します。第三に存在物は過去の無から絶えず離れ去ることによって存在します。第四に存在物は未来の無に向かうことによって存在します。
 存在物における四つの矛盾的形態は、より鋭い形で生物という存在物に現れ、更により鋭い形で人間という意識的な存在物に現れ、更により抽象化された形で社会という存在物に現れています。
 人間という意識的な存在物は、存在物の四つの形態に対応した四つの目的的な側面を持っています。第一は自分の外に向かって働きかけるという側面です。第二は自分の内部に向かって安定を目指すという側面です。第三は自分の過去から不断に向上するという側面です。第四は自分の未来に向かって創造するという側面です。
 教育という人間的な営みは、人間の四つの目的に対応した四つの教育分野を持っています。第一は外に向かう工学・技術的な分野です。第二は内に向かう倫理・体育・芸術的な分野です。第三は過去からの知識を受け継ぐ科学(自然科学・人文科学・社会科学)的な分野です。第四は未来に向かう創造である哲学的な分野です。
 教科としての作文の意義は、主として言語による創造という未来に向かう広義の哲学の分野にあります。それはもちろん作文が、対外部的な工学や技術、対内部的な倫理や芸術、対過去的な知識や伝達の意義を併せ持つことを否定するものではありません。
 作文には四つの側面があります。第一は外面的な形式の面であり、構成・表現・題材・主題などに分類される側面です。第二は内面的な形式の面であり、表現が持つ美的な側面です。第三は過去的な内容の面であり、語彙の持つ材料的な側面です。第四は未来的な内容の面であり、個性・感動・共感・挑戦などに分類される側面です。第一の構成・表現・題材・主題と、第三の語彙は、機械が評価することのできる分野です。第二の美と、第四の個性・感動・共感・挑戦は、人間によってしか評価することができない分野です。なぜならば、人間の認識とは機械の単なる知的認識とは異なる意欲的認識だからです。ただし、第二の美の初歩的な形態は醜くないことであり、それは正しい表記と同義ですから、機械でも評価することができます。
 機械と人間が共生するためには、機械が人間の不得意なことをカバーし、人間が機械の不得意なことをカバーする必要があります。すべてを機械中心に行おうとしたり、すべてを人間中心に行うとしたりすれば、そこに機械と人間の摩擦が生じます。森リンが主として行っているのは、第三の語彙の分野の評価です。
 語彙を一つの球形としてイメージすると、そこには、高さと広さと奥行きがあると見ることができます。
 語彙の高さは、森リンにおける思考語彙(強力語彙)です。これは、文章の内部を強固につなぐ役割を果たす語彙群です。語彙の広さは、森リンにおける表現語彙(素材語彙)です。これは文章の豊かさや広がりを表す語彙群です。語彙の奥行きは、森リンにおける知識語彙(重量語彙)です。これは、文章の内容的な深さを表す語彙群です。
 思考語彙(強力語彙)、表現語彙(素材語彙)、知識語彙(重量語彙)は、相互に拮抗する三つの変数です。この三つの変数の中核となるものは、広さを表す表現語彙(素材語彙)です。その表現語彙(素材語彙)の広さを散漫な広さにせずに高さへとつなぎとめるものが思考語彙(強力語彙)です。また、広さと高さを表面的な広さと高さにしないための奥行きが知識語彙(重量語彙)です。
 これらの三つの変数の単なる和や積が文章の上手さを表すのではありません。どれか一つの語彙が突出して高い文章は、不自然な文章になります。例えば、思考語彙(強力語彙)だけが高い文章は、理屈の多い味気ない文章になる傾向があります。しかし、思考語彙(強力語彙)が適度な高さを保つならばそれは思考的な高さのある文章となります。知識語彙(重量語彙)だけが高い文章は、難解で読み手を拒む偏屈な文章になる傾向があります。しかし、知識語彙(重量語彙)が適度な奥行きを保つならばそれは密度の濃い深い文章となります。表現語彙(素材語彙)だけが高い文章は、冗長で脱線の多い文章になる傾向があります。しかし、表現語彙(素材語彙)が適度な広さを保つならばそれは話題に富んだ豊かな文章となります。三つの変数のバランスを伴った大きさが、森リンが高得点と評価する文章の特徴です。
 さて、評価は方向を指し示しますが、方法を指し示しません。作文を正しく評価することは、作文をその評価した方向で上達させる前提ですが、上達への方法がなければ、評価は教育のための評価とはなりません。
 言葉の森が提案する方法は、題材と表現の充実を、読む教育として行うことです。題材と表現は、従来は漠然と読書の中に位置づけられていました。読書の意義はもちろん時代が変わっても独自に存在しますが、その作文学習における意義は、題材と表現の充実として考えられます。
 読書は、社会の共通の教養基盤を形成します。作文は、社会の共通の表現文化を形成します。言葉の森が描く未来は、読書と作文が新しい時代における文化として共有される社会です。
 さて、世界の言語はその多様性にも関わらず、似通った本質を持っています。森リンの英語版が英語の文章を正確に評価していることを考えると、読書文化、作文文化は、民族性を保ちつつも地球的な文化となる可能性を秘めています。
 今後、異なる言語間の壁は限りなく低くなっていきます。しかし、それだからこそ、それぞれの民族が持つ固有の言語はその重要性をますます増大させていきます。自分が生まれ落ちたときから接している言葉を大切に育てるという平凡なことこそが、実は、自分自身と社会を豊かに育てる道なのです。
                 言葉の森 中根克明