われわれのからだは |
アジサイ | の | 丘 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高3 |
7時、起床。アーアと俺は欠伸をする。起きてしばらくすると、食事が出て |
くる。俺は特に何もしなくて良い。ただ待っていれば良いのだ。9時ごろにな |
ると俺はふらりと家を出て、近場をゆっくりと歩く。蝶が飛び、風が心地よい |
。帰ってくると、俺はソファーでまた眠りに就く。心地よい疲れだ。起きると |
今度は・・・・・・。 |
想像するにユートピアとはこのような世界なのだろう。しかしながらこれは |
私の愛犬の生活でもあるのだ。忙しい生活を送る我々は通勤電車の中でユート |
ピアの夢を見る。しかし我々は、実現したユートピアに長く居続けることはで |
きないであろう。我々の社会は、いつの時も国民に様々なユートピアを示して |
きた。しかしそれらのユートピアは理想であってこそ、社会を進歩させ、活性 |
化させるもので有り得るのだ。「パンツをはいた猿」の中で著者の栗本氏は「 |
人間は文化や社会や制度といったパンツを脱ぐためにはいているのだ」といっ |
ていたが、我々はユートピアの惰性に耐えられなくなるとその理想境を自ら破 |
壊するのだ。長く続いた江戸時代は、尊王攘夷運動によって破壊され、混迷の |
時代を迎えることになる。我々が、戦争を辞められぬ理由もそこにあるであろ |
う。米国が経済の停滞期になると軍事活動をするとはよく聞く話である。我々 |
は戦争をタブーとしている一方で、起こすべくして起こしている矛盾した存在 |
である事を知っておかねばならないだろう。しかし、明治維新にしろ、戦争に |
しろ、失う物は遥かに大きいといわねばなるまい。我々は、「破壊」に頼るの |
ではない、安定しつつも活力を維持する社会を目指してゆかねばならぬはずで |
ある。 |
ではどうすれば良いのか。横田ジュンヤのショートショートに次のようなも |
のがあった。「若いの、そこの部屋にいることは分かっているんだ。降参して |
出てきなさい。」とその探偵らしき男は言った。「出てこないなら私が行って |
やろう。しかし命の保証はできんよ。」男は有を片手に部屋に入ったが、そこ |
にあるのは一つのベッドだけ。そして、銃を投げ出すと「・・・しかし、つまらん |
遊びだな。」と第三次世界大戦を唯一生き延びた地球上最後の男は呟いた。 |
地球上最後の男は、自ら敵を想定する事によって、惰性的な日々に活力を与 |
えていた。我々の社会においても、いかに無害に「敵」を設定できるかが重要 |
なのである。現在の社会においてもこの構造は見ることが出来る。前に述べた |
栗本慎一郎は「祭りは社会秩序を仮想的に破壊する機能を持っている」と述べ |
ているが、例えば我々は最近のバスジャック事件をテレビ映像として共有する |
ことによって、たしかに「敵」と「我々」という一体感を味わったはずである |
。オリンピックもまた同じであろう。 |
もう一つ重要なことに、社会が活性化するためには適度のタブーが必要であ |
るということだ。どこかの部族は死や性を子供に包み隠さず教えるから、そこ |
の子供は素直に育つ、などということが実しやかに書かれたりするが、タブー |
の無い社会というものはつまらないものだ。現在の日本の漫画文化は、漫画の |
成立当時のPTAによる漫画攻撃のおかげであるとも言われている。当時の漫 |
画家は、批判をされつつもより新しいものを作り出そうと努力し、タブーだか |
らこそ読者は覗いてみたい気持ちになったのである。そうして生まれた漫画家 |
の一人が手塚治虫であった。現在の伝統工芸のように、認められるということ |
は惰性化し活力を失うことをも意味するのである。 |
我々はユートピアの夢を見る。しかし、理想境は理想であるからこそ意味を |
持つのである。自らに飽き足らず、絶えず新たな物を作り出そうとする社会こ |
そが、本当の意味で「ユートピア」なのかも知れぬ。 |