流行と古典 |
アジサイ | の | 丘 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高3 |
ショートショート作家、横田順彌は対談の中で、次のように語る。「私は雑 |
誌に載った星新一さんの短編をせっせとスクラップブックに貼り付けて、保存 |
していたんですけど、学校の先生に、そんなSFなんぞ読まないで役にたつ本 |
を読みなさいと言われて、取り上げられてしましましたよ。おかげで、SFを |
書いてる今の私がいるんですけどね。」当時、星新一は世俗小説を乱作する一 |
人の若手作家としか評価されていなかった。「私は決して世俗小説を書いたこ |
とはない。私の作品が古びるのが恐いからだ。私はこれまで数多くの作品を書 |
いてきたが、その中で古典となるものは一つもないだろう。しかし、その中で |
民話として語り継がれるものがあれば良いと思う。」と星新一は「どんぐり民 |
話館」の後書きでこのように述べているが、これは彼が執筆当時から暖め、育 |
て上げてきた、古典を偏重する世間に対しての一つの解答であった。 |
私がここで主張したいのは、決して古典を偏重すべきではない、などと言う |
ことではない。逆説的ではあるが、世間の適度な古典偏重主義こそ、流行を古 |
典に育てあげると言うことなのである。古典とは常にテロとして生まれる。星 |
新一は、当時少年達に流行していたSFで名を知られるようになり、生涯その |
姿勢は変わらなかったと言える。それは彼の頭の中に、常に古典と言うものが |
「突き破るもの」として認識されていたからからではあるまいか。手塚治虫は |
PTAによる非難に対抗するように漫画を書きつづけ、そして生まれたのが「 |
ジャングル大帝」であった。校則で禁止されているからこそ高校生はタバコを |
吸うのである(そうか?)。しかし、現在は流行に対して一定の価値を置く社 |
会となった。古典も良いけど、流行も良いよという時代なのである。確かに新 |
しいものを作りやすい時代にはなったかもしれぬ。しかし「突き破るもの」が |
無くなった現在、流行が古典の段階に行くことが非常に難しい時代になったと |
言えるであろう。 |
古典偏重主義が力を失った背景と何なのであろうか。一言で言おう。古典は |
流行に負けたのだ。古典は流行ほど人の心を揺さ振らなくなったのである。古 |
典と言えるかどうか微妙だが、演歌はその好例と言える。演歌の作詞家が、匿 |
名で新聞の投稿欄に「演歌は作詩のテーマみな似たり寄ったりであると批判さ |
れるが、我々も生活しなければならない。人気のある内容を作詩しているのが |
現状だ」と言ったことを書いていた。古典という伝統証書にしがみついて、新 |
たなものを作る努力を怠ったことが、演歌の人気を失わせたのである。何やら |
気取った文体で訳されている外国文学の翻訳本も同様である。古典偏重主義の |
存続には、それを支えるだけの「生きた古典」がなければならぬと言うことで |
ある |
たしかに、、これまで古典偏重主義が多くの流行の芽を摘み取ってきたこと |
は事実であろう。ハリウッド版ゴジラが日本で公開された時、東宝のスタッフ |
による「あれはゴジラではない」という批評がマスコミで騒がれ、映画の売り |
上げは予想を大きく下回った。しかし、毒にも薬にもならないような流行は、 |
やがて消えて行くであろう。丸山真男が日本が安易な戦争主義に走った背景と |
して、新旧の伝統思想が、新しいものが古いものを乗り越えること無しに共存 |
しているという日本文化の浅さを挙げていたことを記憶している。流行と古典 |
が平和に共存している社会と言うものは、決して望ましくはないであろう。古 |
典は流行に対抗しうる「民話」として語り継がれ、流行は古典との擦れ合いに |
よって消化される、その過程の中で「流行」は「古典」となりうるのではな |
かろうか。、 |