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アジサイ | の | 道 | の広場 |
眠雨 | / | うき | 高1 |
一面的なものの見方は決して良好な人間関係を生み出さない。その点で言え |
ば、絶対的な「正義」や「悪」を作り、常に両者の対立によって話を進める作 |
品の形は、褒められたものでもないだろう。人間は本来、一人一人「正義」や |
「悪」の価値観すら違うものなのだし、その一人一人の内部においても「正義 |
」と「悪」はその片方によって人格を形成しうるものではなく、また丁寧に分 |
別されているものでもない。勧善懲悪、正義の暴力という解決形式がまかり通 |
っている最近の漫画やアニメの中、我々はもっと多面的なものの見方を見に付 |
けていくべきだろう。 |
そのためにはまず、人間がそれぞれに違うということを知り、他者の身にな |
って考えるという能力を身に付けていくことが大切である。人間はともすれば |
自分が見えるものだけが世界だと勘違いしてしまう。凝り固まった考えが生ま |
れてしまう。だから、我々は自分だけがその風景を見ているのではないと知ら |
ねばならない。さてそのためには、それこそ人によって身に合った様々な方法 |
があるだろう。私にとって、それは演劇だった。台本を選ぶ課程、その根底に |
あるテーマの把握。そして台詞。自分が演じる、自分とは育った環境も価値観 |
も癖も、何を好み何を嫌うかも、自分とは違う別人。何故そこでそんな台詞を |
言うのか。どんな気持ちでその返答をしたのか。こんな台詞のときには、どん |
な動作をするのだろうか。台本との取っ組み合いに終始するだけではなく、仲 |
間とも相談する。その過程で、自分では想像もつかなかったような意見が出る |
。そうして登場人物は自分から離れ、他人である彼自身を形成していく。まさ |
に他者を理解する作業への慣れである。演劇をやる上で、自然と他人を観察す |
る癖も身についてくる。そうして物事を見る視野が広がっていくのである。 |
また、誤解の原因ともなる漫画やアニメ、ゲームの在り方も変革していくに |
こしたことはない。前述したように、最近のそうした創作物は、主人公と敵役 |
は問題の解決方法を常に暴力へ設定しており、真に互いを異なる個として見て |
互いが幸福になれる道を、探そうとしないことが多い。やや古い話になるが、 |
プレイステーションのソフトに北欧神話のヴァルキリーを主人公に据えたもの |
があった。ヴァルキリーは死した英雄の魂をヴァルハラへ導く戦乙女であり訪 |
れるラグナロクへ向けての戦力を集める神族というのはまぁ一般常識だが、そ |
うした存在を主人公に置くことによって当然のようにストーリーは偏った神へ |
の讃歌に転がっていく。例えば、ヴァルキリーが「敵」を倒したとする。これ |
が他のゲーム、例えば任天堂の『MOTHER』のようなゲームならば「変なお兄さ |
んは我にかえった」などと表示されるところだが、このゲームではあまりぞっ |
としない言葉が表示される。「浄化完了」。敵は悪なのだから、正義であるプ |
レイヤーたちが「殺す」ことによって「浄化された」わけだ。こうした思想の |
偏りを生み出す最近の作品の風潮は、人間性の貧困さを招くのではないだろう |
か。 |
(フォローのために書いておくと、このゲームはRPGという性質上か、上手 |
く進めればヴァルキリーは段々と自分の行いに疑問を持ち始める。結構なこと |
である。こうした登場人物側からの真摯な姿勢が、作品を単なる虐殺物語に押 |
しとどめないための工夫と言えよう) |
確かに、自分の中で揺るがない価値観を持っていれば行動は迅速になる。自 |
分の行動が完全に正しいと確信しているならば、他人の忠言など気にせずに我 |
が道を貫けるからだ。だが、そうした強すぎる信念が生んだのは差別と独裁。 |
ユダヤ人の虐殺や比叡山の焼き討ちといった痛ましい事件。旧時代の悲劇を、 |
我々が繰り返す必要はない。我々には言葉がある。我々には過去がある。我々 |
はそのすべてを、我々自身への教訓として受け止め、より大きくなっていくこ |
とができる。そして今。今必要とされているのは、多面的なものの見方なのだ |
。 |