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実は現在のインターネットの
アジサイ の広場
武照 あよ 高3
 血で真っ赤に染まった海に、殺されたイルカが釣り下げられている。
 
 最近、日本の捕鯨再開に反対して、動物保護団体が発表した写真である。私
はこの写真を新聞で見て(しかも夜中に)、衝撃を受けたのだが、それと同時
にまたいつもの手だなとも思ったのである。最も名を知られた動物保護団体で
あるグリーンピースは動物保護キャンペーンを行なう時、必ず象やペンギンや
アザラシといった人に好まれた動物が無残に殺されている写真を掲載する。理
性より感情に訴えるのである。しかし、そのキャンペーンで得た会費がそのマ
スコット動物の保護に使われることは無かったとも裏では囁かれている。キャ
ンペーンで得た会費は新たな会員を集めるために使われるという。一部の人々
がグリンピースを指して鼠講と呼ぶ理由である。
 
 私はグリンピースを非難するつもりはない。ボランティアとして真面目に活
動している人も多いだろう。しかし、当初の無償の活動が規模の拡大に伴って
、無償ではない、資本主義原理を帯びてきているのもまた事実だと思われるの
である。無償の活動と、それを妨げようとする資本主義原理の対立は現在様々
なところで見ることが出来る。セレラ社がDNA解析を始めた時、特許を取ら
れることを恐れた学会は、インターネット上でDNAの解析結果を次々と流し
た。(結局セレラ社も解析結果をインターネットで無償で流したのだが。)
 
 現在のインターネットの普及は、無償の社会を作る上で大きな可能性を秘め
ていると言える。インターネットがボランティアの手によって支えられている
とはよく聞く話であるが、国家や民族を超えた「個人」が、互いに無償で活動
できる世界がインターネットから生れてくるかもしれない。
 
 互いに無償で活動し、それが社会全体の幸福に繋がると言う青写真は多くの
思想家が示してきた。それを実現することは極めて難しい。社会主義の失敗は
、それをよく表しているであろう。競争の無い社会は生産意欲が不足し、非効
率的で、敵がいないために結合の弱い社会を生み出すことが多いのである。我
々が、無償の社会を目指して行くに当たって、まずモノではなく「才能」を売
り、それをお金で買うことが出来る社会を中間段階として目指さねばならない
であろう。これは、特に目新しいことではない。今でも学問の世界では、学者
が雑誌などに論文と言う「才能」を売り、それによって信用を買い、その信用
に応じて賃金が手にはいると言う構図が成り立っている。無特定多数を相手に
いかに信用を買うのかということは問題だが、この「信用」がお金に還元され
る社会は、無償活動と資本主義の共存した社会であると言える。また、この「
信用」こそが無償の社会では、人と人を結びつけるものとなるであろう。
 
 確かに、いくつかの社会主義やヤマギシなどに象徴されるように、互いに無
償で活動することを目指す社会と言うものは閉鎖的になり易い。しかし、イン
ターネットに代表されるように開いた無償社会と言うものが、社会の流れとし
て生まれつつある。互いに無償で活動し、それが社会全体の利益に繋がる社会
と言うものは、成しがたくも魅力的である。無償社会の芽が、社会主義と同じ
道を辿るか、資本主義原理に摘み取られるか、或いは大きく開花するか、それ
は我々の育て方次第であると言える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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