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自然・人工
ウグイス の広場
潤之介 かな 中1
 私は待つしかない。期待ということではなく、己を空白にして音が私に語り
かけてくるまで待つ。私は音をつかって作曲をするのではない。私は音と協同
するのだ。だが、私が、時に「作曲家として」無力感に捉えられるのは、私が
まだ協同者「音」の言葉をうまく話せないからだ。
音楽が人間の手(演奏)を通して顕われてくるものであることを考えると、い
っそうその思いを強くする。自然から学ぶことは余りにも多い。それは、私に
、音が語りかけてくる毀れやすい言葉の表情を聴き逃がすことがないように働
きかけてくれる。作曲は音と人間との協同作業だと思うから、作曲家は音に傲
慢であってはならないだろう。
 
 私は、自然との協力が必要だと思い、そのためには自然に謙虚にならなけれ
ばいけない。その理由は2つある。1つは、自然のものは、深味と味があると
いう事である。この自然ものと協力して作られたものが、現在でいうプロとい
う人たちが作ったものである。例えばプロの人たちは、ラーメン一つ作るにし
ても、しっかりだしなどを用意して、時間をかけて作る。だからあんなに美味
しいものが作れるのだ。私も、カップラーメン(人工的)と、普通のラーメン
(自然的)とを比べてみたが、やはり普通のラーメンの方が美味しいし、何よ
り栄養価が高い。だから、やはり自然的なほうが時間はかかるが良いものだと
思う。
 
 第二の理由は、人工的なものは、便利で、快適で、少しの時間で大量に生産
する事ができる。が、自然の深みが浅くなってしまう。要するに自然に謙虚に
ならないでしまうのである。上のようにラーメンを作る時も、「便利」なカッ
プラーメンを使うようになり、浅漬けなどを作る時には、浅漬けのもとを入れ
たりして作る。などという事が当たり前になってしまう。たしかに、すぐでき
て、便利なものもいざという時には大切である。しかし私はたとえすぐにはで
きなくても、美味しかったり、栄養価の高いもののほうが大事だと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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