我々を殺す規定に頼って我々は生きる |
アジサイ | の | 道 | の広場 |
眠雨 | / | うき | 高1 |
誰もが病んでいるという。この歪んだ社会の中で。繰り返される日常の中で |
。永遠の円周の中で螺旋を夢見ながら、けれど少しずつ我々の自我は壊れてい |
く。 |
脆いアイデンティティの行き先は潔癖症であると言われる。医学的な意味で |
の「潔癖症」ではない。他者を否定することによって自己を確認しようとする |
姿が、まるであらゆる汚れを嫌っているように見えるのだ。そうした人間の本 |
能とでも言うべき自己確認の意識は、否定するべき他者があまりに己と似通っ |
ていたとき、暴走を始める。どんな微細な違いでも発見し、ついには違いを妄 |
想し、本来似ているはずの他者を、自分の歪んだ認識のもとに想像の中で変革 |
していってしまうのだ。だが、その他者否定の行き着く先は悲劇である。世界 |
各地の諸民族の紛争を見て取れば、それぞれが似ているばかりに相手を否定し |
すぎたことが、引き金になっていることも多い。不要な争いを引き起こさない |
ために、アイデンティティはもう少し穏便に確立される方がいいだろう。 |
そのためには、第一に自分自身の個性というものを見つけることがあげられ |
る。そもそも自分のよってたつ大きなものがないから他者を否定するという後 |
ろ向きな手段に出なければならないのであって、自分が確かに自分であるとい |
うものさえもっていれば、たとえ相手がどんなに似通っていようと気にするこ |
とはない。「自分は○○である」と強固に規定する、それは言うなれば意志の |
強さであり、また頑固さでもある。私の知り合いに、そうした強烈な自我をも |
った人物がいる。自分の求めるものをはっきりもち、嫌いなものもはっきり打 |
ちだし、そしてそれが自分だと肯定する。彼の書いている小説の中に、彼自身 |
を投影したような人物がでてくる。口癖は「俺は俺だ。それ以上でもそれ以下 |
でもない」。まさにこの精神が、平穏無事とは言えないまでも安定した状態と |
いえるのではないだろうか。 |
また別の手段として、ある限定された範囲において他者を否定するというの |
もあげられる。つまりはいわゆる愚痴というものだが。大切なのは、民族大虐 |
殺とまではいかずとも「いじめ」のような、かたちをもった他者否定に結びつ |
かないことと、同時に自己が確立できることである。それを踏まえれば、そこ |
からはみださない毒吐き場を設けることは意外に有効なうにも思える。例えは |
悪いが、どんな美形にも化粧室は必要なのだ。こうした変わった環境として、 |
「2ch」というサイトが挙げられる。一言で言うならアングラの成り損ないのよ |
うなサイトで、無数のBBSを提供しており、そこで匿名のアングラめいた話題 |
が交わされているが実際の荒らしはやらない(ことになっている)、という奇 |
妙な場所である。通称公共トイレとも呼ばれるそこは、様々な議題について「 |
既知害だな(藁)」「逝ってよし」「氏ね」などの毒が吐かれているが、そこ |
で発言している人間は、実は表サイトでは良識のある参加者だったりする。そ |
うした閉鎖環境に限るならば他者否定も肯定していいかもしれない。もちろん |
、エスカレートしないよう管理された否定であることは大切だが。件のサイト |
には、神戸の少年も出入りしていたらしい。実行に移さないだけの常識は、毒 |
を吐く際にも必要だ。 |
確かに、社会の中において、究極的に自我は邪魔にこそなれ重視されるもの |
ではない。友人と良い関係を築くためには、相手を肯定し、自分を否定するこ |
とが大切だ。しかし、そうした中で自分であることを辞めてしまったら、後に |
残るのはただの肉である。自我の喪失、それは人間性の終焉である。存在した |
いという欲求なくしては、我々は存在し得ない。生きるために創り出した社会 |
の中で、人間が死んでいってならない。「人生に意味はない。あるのは欲望だ |
」とはチャップリンの言葉だが。人間が創り出した社会システムは、今や人間 |
自身を否定しようとする。そのシステムに組み込まれながらも、人間は生きよ |
うとする。否定と欲求の乱れる歪んだシステムの中で我々は、他者を否定せず |
に自分自身を確立する手法を見つけるべきである。回避すべき人間同士の争い |
は、互いを食いつぶした末の自滅の危機を孕んでいるのだ。 |