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この世はTIME ISN’T MONEYだ

ぜ?(自信ない(T_T))
アジサイ の広場
AE86 えや 高1
 貧困な層の定義として世界銀行等でふつうに使われるのは、一日あたりの生
活費が一ドルという水準である。巴馬瑶族の地域の一人あたり平均年収は四八
〇〇円で、一日あたり〇・一三ドルくらいである。貧困は、金銭をもたないこ
とにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもてないこ
とにある。馬瑶族の人たちもアマゾンの多くの原住民も、今日この「一日一ド
ル以下」の所得しかない三一億人に入っているが、彼らの「所得」を「一ドル
以上」とするにちがいない政策によって、幸福のいくつもの次元を失い、不幸
を増
大する可能性の方が、現実にははるかに大きい。一日一ドルという「貧困」の
ラインから「救い上げられた」人口の統計のうちに入るかもしれないのである
 
 お金のある生活とない生活。あなたならどちらを選ぶだろうか?私なら、住
んでいる環境によって変わる。周りに何も無く自給自足が出来ないのであれば
お金が必要であるし、出来るなら少なくても支障はない。ただし、一つ言える
事がある。お金というモノを手に入れることによって、何か大切なものが失わ
れてくのだ。お金があるということは一般的に大変な仕事をしているか長い時
間しているかである。そういった中で、家に帰ってくれば家族と話しもせずに
寝てしまう。これではお金はあるかもしれないが、家庭の団欒が無く、キズナ
が薄れていってしまうのだ。
 
 そもそも、生活水準をお金で評価する事自体が間違っているのだ。人間とは
お金なんかなくても幸せなモノは幸せなのだ。ちょっと違うカモしれないが、
私は月3000円の小遣いで毎月読んでるクルマ雑誌3冊を買う。すると15
00円余るのだ。私はコレ以外買わない。実際に私はコレ以外は買わない。し
かし、私はコレで幸せである。
 
 上の例はあくまでも私の場合のみですので気にしないで下さい。もっと分か
り安い例を挙げましょう。ある小さな国にある小さな村での生活は、朝起きた
ら家族で楽しい話をしながらゴロゴロしている。しばらくすると三十分程魚を
釣りに川に出かける。そして釣った魚を近所でニンジンなどと換えてもらい、
ご飯にありつく。という一日1$以下の生活である。この生活を見たニューヨ
ークの一流企業の社長が「可哀相に、お金をたくさん寄付してあげよう」とた
くさんのお金を寄付すると、みるみるうちに村は栄え、今まで食糧の調達をし
ていた人が一日八時間も働き、今まで食糧の調達をしなかった人が、釣りをし
ていた川を越えて魚屋に行き、帰りに八百屋でニンジンを買うようになったの
だ。そして、一日10$の稼ぎを貰い、働き疲れて帰って来て会話も無く寝て
しまうのだ。この家族は一日1$の生活から一日10$の生活へと金銭的な生
活水準は向上した。が、しかし、帰ってきたらソッコーで眠りに就いてしまう
オヤジさんにより家庭は崩壊寸前(?)。しかし、そんなところまで見えない
NYの社長さんは「良かった良かった」と一人で納得してしまうのだ。
 
 このように、お金がすべてではないのだ。むしろ、お金が無い人の方が世の
中では成功するのではないだろうか?
 
 みなさん、もっとお金に対する考えを変えるべきですよ~(^o^)/。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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