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受験の大衆化 アジサイ の広場
あやの あしわ 高3

 受験の大衆化に伴い、日本の未来を担う子供たちの夢が、欲望が希薄になっている。偏差値や模擬試験の多用により、受験生は無謀な挑戦を避けるように
なったし、その逆に高望みもしなくなった。必ずしも覇者に成れなくてもそうなることは事前におよそ分かり得ていたことでもあるからして、大した挫折を 味わわなくても切り抜けられるようになってきた。このことは、言い換えれば、我々の欲望は、自分自身によってではなく、社会の教育システムによって制 御されているのではないか。数値による相対的な学力の序列化は今後も止むことはないだろう。このような体制下において私たちはどのようにして、夢や欲 望を自らの主体性の側に取り戻し、受験する意義、勉強する意義、生きる意義を問いただしていけるだろうか。  

 
 

 多くの者は中学校から高校に上がるときに初めて受験と向き合う。現状ではほぼ100%に近い数が中学以上の進学を選択する。このときも大多数は普通
科を選び、特に世間の常識範囲から外れたような道へ進むことに躊躇いを覚えるだろうし、教師や保護者もそれを望まない。それは既に社会に蔓延している ある暗黙の了解のためであろうし、また詰め込み型の教育の産物でもある創造力の喪失のせいでもあろう。このころから、もしかしたらもっと前から、私た ちは社会システムの流れに自分の未来を預けてしまい、自らの力で開拓して夢を獲得しようとすることを放棄してしまっているのではないか。  

 その欲望を取り返すためには、私たちは先ず自分自身を知り、何をやりたいのか、何が好きなのか、つまり、自分とはどんな人間なのかを知っていなけれ
ばならない。その認識を創り上げるのに子供の頃からの遊びが重要な鍵を握っているのではないかと言われている。幼児期からの集団での遊びは社会に出る までの練習のようなものだし、集団での行動を通して個というものの存在を自覚するようになる。このようなことの積み重ねによって、人は社会の多様性を 認識しつつ自分の在り方を追求し、集団の中に在りながらも流されない確固たる個を築き始めるようになるのではないか。  

 よって私は人が夢、希望、欲望を再び主体の側に取り込むには、社会の誘惑に翻弄されないように自分自身の中で更に自分を高めようとする向上心を養う
必要があると思うのだ。これまで特に受験の世界では競争心を煽ることで成功に近づけようとしてきた。しかもそれは一種受け身的な競争心で、環境によっ て競争させられたと言うように感じている人も少なくないはずだ。だが受け身的な力で、自分を根元的に高めることは出来ない。自分で自分をチェック出来 るようになって初めて人は自分を知る。今後教育や社会が目指すべきは、個人のなかで切磋琢磨する向上心の形成を促すことではないか。                                                  
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