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充実した毎日を、求めて イチゴ の広場
たば星人 あころ 中1

 動物の場合、われわれとは死の概念自体がずいぶん違うのではないかと思うのだ。彼らにとって死とは、衰弱した精神が描く単純で強烈な恐怖の源ではな
い。われわれの精神は死という言葉を聞いただけで毛を逆立てる。前者が広い動物界に向かって開き、人をそちらえ押しやるものであるのに対して、後者は 人を自分の中に収斂させるだけ、人はどこも到達できない。周囲の世界から孤立した、寂しい想像力。それに追いまくられてつのる死の恐怖の行き着くとこ ろには、やはり不幸な死しかないだろう。肉食獣に追われて逃げきるか喰われるかは一つのゲームである。何度勝ったものもいつか敗れる。死は目前にあり 誰もそれを忘れたふりはしない。死ぬことは、個体の中に宿る個としての意識、連続的な生の意識の喪失である。喰う側は、その個体だから喰うのではなく 、たまたま手に入った肉だから喰うだけだ。自分が、それまで喰ってきたもののすべてが、ほかならぬ自分もまた喰われるものであることを保証する。野生 の動物は、この境地を最初から心の中に具備しているのだ。その場その場で力を尽くすだけで、それを越える不安があることに気づきもしない本当はそんな 不安などないのではないか、と考えることができたら人間もまた彼らの境地にあと一歩なのだが、それは容易なことではないらしい。  

 これは、人間と動物(狩人・狩猟民族も含める)の死と生の概念について述べた文だ。ぼくは、これについてそのとうりだと思った。人間は、死というも
のを怖がりすぎると思う。死を考えるより、今をもっと充実させた方がいいと思う。  

 それは、こんなことがあったからだ。それは、ボーイスカウトで丹沢に行った時のことだった。連絡網では、隊長は
 

 「晴れそうだから半袖でもいい」
 

 ということになっていた。がっしかし、現実はそう甘くはなかった。その日の朝は、はれていたのに昼頃になって急に、どしゃぶりになったのだ。僕は、
長袖だったからいいものの他のみんなは、ほとんどが長袖を着てきていた。しかもそこは、山道で、傘をさすわけにも行かなかった。しかし、「ポンチョ」 という雨具をきたのだが。その雨具は、歩きにくく、僕は、それなしで歩き始めた。丹沢の山道は急ですごく滑って危なかった。僕は、一度転びそうになっ て崖から落ちそうになったことがあった。かなり大げさだがその山道で、本気で死ぬかもしれないと思ったのだ。しかし、自力で家に帰ってきたときの達成 感は、計り知れないものがあった。  

 このようなことがあってから、死を考えるより一日一日を大切に充実した毎日を過ごすことが、楽しいということを実感するようになった。
 

 「人間は食べるために生きているのではない、生きるために食べているのだ」という名言にあるように、人間は死ぬために一日一日を生きているのではな
く、達成感を得るために生きているのだと思う。そのためには、一日を充実させることが大切だと思う。  

 中学に入ってそれまでよりは充実した毎日をおくってはいるが、もっと充実な毎日をおくるために積極的に委員会などに入っていこうと思う。
                                           
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