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投影装置 アジサイ の広場
眠雨 うき 高1

 人間は二足歩行によって脳を支え手を解放し、言葉と道具を得るという異質な進化の道を辿った。しかしその結果人間は、動物の野生的な真実への知覚で
ある「本能」を極度に衰退させ、ただ巧緻に作りあげた文化という投影機によっておぼろげな世界の幻灯を、いくつもの影が結んだその幻像を見ることしか 叶わない生物となった。投影機は多種多様で、結ばれる像も様々であり、映す対象である真実は共有されているがゆえにある程度の共通性は見えるものの、 細部は様々な個所でやはり食い違いが生じる。私たちは本能を衰退させたために映される以前の真実に触れることは叶わず、投影機によって映し出される像 の外は闇、人間が心の奥底に封じた本能の、じわりとぼやけながら滲みでる部分、「恐怖」という本能の対象である闇だ。ゆえに我々は自らの文化外の存在 を恐れ、異質な文化の有する本来闇でなければならない部分での何かの存在を恐れ、目を閉じ、究極的には排除することによって安定を得ようとする。それ はこれまでの社会から言えば表面化するほどの問題ではなかったのだが、今後のインターネットや交通機関の利便化によって各国間の交流が頻繁になるであ ろう社会情勢を考えれば、「異質」の排除は大きな社会問題となってくることが容易に予測される。  

 ではそうした問題を回避するためにはどうするかというと、まず第一に、その「異質」を理解し、互いに歩み寄る姿勢をもつことである。ある国の住民に
頭蓋骨を皿代わりにスープを飲む習慣があったとして、そこへ訪れた日本人が顔をしかめて、時にははっきりと「未開人」への軽蔑の表情を浮かべるのは良 くない。人間の頭蓋骨は日本人の文化外の存在であるがゆえに気味の悪さを持っているが、その国においては根づいた伝統なのだ。それを尊重することは大 切であり、また相手も、そうした文化があまりいい印象を与えないことを知り、いたずらに外国人へ薦めないことも大切である。昔、私の家の裏手へ指が落 ちていた。指である。私は見ていないのだが、切り口も生々しい指がぽとりと落ちていたそうだ。実際は精巧に作られた偽物だったそうだが、切り取られた 指も、頭蓋骨の器のように通常我々の文化に存在しないために、嫌がらせとしては非常に効果的であると思い知った。心無い人間はいつの時代もいるものだ が、善意のつもりで行なった行動も、しかしこうした嫌がらせと受け取られてしまう可能性はある。相手が何を求め何を嫌うかを察知し、歩み寄り、妥協し 理解していく姿勢が大切である。  

 次には、未だアンダーグラウンドにおいては蔓延している差別意識を浮き彫りにすることがある。口でこそ人種平等、性別平等が叫ばれているものの、少
しマンホールのフタを開けてみれば、忌み嫌われる汚物は単に見えない場所を流れているだけだ。黄色人種至上思想、黒人差別、学歴差別。差別とは「異質 の排除」の象徴であり、友好的な接触をとる上で疎外となる壁だ。例えば、アンダーグラウンド入り口が見える辺りの有害さの「2ちゃんねる」というサイ トでは、差別用語・罵倒語が頻繁に使われている。「高卒死ねば?」というのは多少過激な発言だが、それでもちらりと見渡すだけで厨房、ヒッキー、ドキ ュソなどのスラングめいた差別語が目に付く。中には身体障害者や精神病患者を扱き下ろすような言葉もあり、読んでいて気分が悪くなること請け合いであ る。こうしたゴミ捨て場は社会に必要なものかもしれないが、しかしこうした認識が台頭するようになれば、「ああ、コイツは電波ちゃんだな」などと無意 識のうちに相手を見下すような回路が、脳にできてしまわないとも限らないのである。  

 確かに閉鎖された文化は、しばしば非常に清廉されたものを生み出す。日本が三百余年の鎖国を行なう中で国民の意識や思想、認識が徐々に統一され、結
果俳句という世界でも屈指の短さ、言葉の足らなさを持つ優れた詩の形式が生まれた。だがそれは文化の成長という意味では喜ぶべきものかもしれないが、 その閉鎖性を促進させていること、そして現在は鎖国など行なわれておらず、各国間は相互の依存関係によって国民を養っている、その情勢を考えれば異質 を排除しようとする極端な文化の形成は奨励されない。その国独自の特長をもつのは良いことではある。だが、その形成を促進しようとするあまりに他者を 疎外していく姿勢は、これからの社会では決して歓迎されはしないだろう。  

 
                                                 
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