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文化の流れ アジサイ の広場
太一 あうけ 中2 文化もパーソナリティーも多くの場合、少しずつ変化し、そして時には大きく急速に変化しうるものである。ほかならぬ私自身が欲していると思うことも、 それは幻想であるに過ぎない。より大きな交換価値を持つ記号として皆が欲しているがゆえに、常識を身につけている私が無意識のうちに欲するようになっ てしまっているに過ぎない。また、「交換価値」が変化すれば常識も変化し、それにしたがって個人の欲望の内容も当然変化することになるのだろう。  

 やはり、時代によって、交換価値というものが違い、その時代それぞれの「交換価値」があるというのはわかる。僕だって、歩いていてすれ違った人にふ
と目をやったりした時にその人が、「あの人、結構かわいい。」と思える人だったことはもちろんある。しかし、明らかに昔っぽく、そんなものは廃れまし た、といえるような人とすれちがったりしても、僕はかわいいとか、美人とか思わないだろう。やはり、これも「交換価値」のおかげだろう。  

 また、今おもえばあの騒ぎはなんだったのだろうと思えるような流行った物も、周りの友達がみんな持っていたり、それについての話をしていたりすると
、何故か自分も欲しくなってしまうものだ。現に、今、僕の友達の多くはギターをやっている。僕は今まで、音楽は聴くことにしか興味が無かったが、それ によって、全く楽器を触ったことが無いこの僕でもなぜか「ギターが欲しい」などと思ってしまっている。  

 しかし、流行っているものばかりに流されていては、流行っているものにすぐお金をつぎ込み、その流行はすぐに廃れる。そして、また新しく流行ってき
ているものにお金をつぎ込む、今の女子高生はこのような人が多いが、これでは本当に湯水のごとくお金を使っているようで、僕にとってはあまりにもった いないような気がする。  

 やはり、ある程度の時代の流れに乗らなければ、友達と話はしにくい。また、いくら、時代に流されていないというひとでも、必ずと言って良いほど、小
さくではあるが、乗っている。最終的に、人間は文化というものの中にすんでいるのだから、確実に時代の流れに乗って生きているのだと思う。  

 
                                               
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