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余白の正体 ウグイス の広場
はるる くあ 中1

 私は、新聞を、月一度とか二度ではなく毎日立つ縁日のようなものであると見ているふしがある。縁日であるから、やはりそこには、日常生活の時間の流
れと異なった、さまざまな偶然の介入があった方がよい。さし当たって、新聞の中にそうした偶然が潜んでいる空間を探すとすれば、それはやはり、個人が ひそかに培養している「私」文化といった、あまり人と分かち持ちたくないものに直接プラスになるものの方が、意外性の面ではよりよいように思われる。  

 私はどちらかというと文章を読むのが好きな方だ。だから新聞も、自分が興味を持っていることだとよく読む。(もちろん興味のないものは読まない。)
考えてみれば、新聞をすべて読むなんてとても大変だと思う。それに、新聞は無理して読むものでもない。もともと新聞とは自分が欲しい情報を得る道具で あって、それが強制されることはおかしなことではないだろうか。  

 私の体験では、学校の授業がある。例えば歴史の授業。私は世界史が好きだ。だから、日本史の授業を受けていると、結構眠くなる。でも先生が、その日
本史の出来事をあった事をそのまま教えるのではなく、色々な思いや関連する事と一緒に教えてくれるので、私はまだ日本史が嫌いにはなっていない。  

 けれども、行間や余白を読む方が私は難しいと思う。文字はそこにあれば読むことができるが、行間や余白はそうはいかない。(私は。)物事の本質だけ
ではなく、余白までもを読み取るのはなかなかできるものではない。そもそも余白とは何なのだろうか。授業でいえば先生のバイトの話、、、、、、。(つ まり雑談。)文章でいえば広告欄、、、、、、。(あとテレビ欄)しかし、私はどうも違う気がする。その理由は、バイトの話はやっぱり授業にははいらな いと思う。広告欄は、新聞とは情報を得る道具なのだからそれを余白とはいえないと思う。  

 確かに、もの事に余白を見つけていって楽しむのはとても良い。けれども、必ずしも自分が余白と感じたからといって、他の人もそれを余白とは感じない
ことがあるはずだ。とはいえ、私自身もよく余白の意味が分かっていないので、はっきりとはいえない、、、、、、。名言からは「人生に意味はない。ある のは欲望だ。欲望があるから、バラはバラらしく花を咲かせている。」を引用する。まだ余白の意味は分からないけれど、それをこれから探していくのも一 つの方法だと思う。それに、新聞は読みたいから読むものだと感じた。これからも「縁日」のような新聞を読んでいきたいと思った。新聞はそれこそ「縁日 」のようにとても楽しい。  

 
                                               
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