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「感想文」に対する感想文 ウグイス の広場
ナズナ あもせ 小6 私はこの文章に対して「似た話」などはない。感想文は書かないつもりだ。  

 私はとある一冊の本を読みふけたことがあった。それはこのようなものである。
 

  
 

 学校の作文や図画の時間などにも、先生はもっと「うそ」というものに対してゆとりを持って指導することが大切ではないか、と近頃私はかなり真剣に考
えるようになっています。  

 私が子供のころ、作文の時間というと、先生は「本当のことをありのままに書けばよい」と指導してくれたように思います。ところが、そういわれればい
われるほど、私は何を書いていいかわからなくなってしまいました。  

 遠足の作文などでも朝何時に起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、それから学校へ行って、何時に出発して、どこからどこまで電車に乗って、それから
どこで弁当を食べた、というようなことなら、私にだって本当のことを書くことができました。けれども、「こんなことを書いて何になるのだろう」と思う と、まるで筆が進まないのです。ところが、自分の気持ち、思ったことなどをかこうとすると、何を書いてもうそになるような気がして書けなくなるのです 。自分の気持ちや思ったことなど、いつどこで思ったのかあまりはっきりしないし、はっきりしたところで、それはとうてい文章に書ききれない、何を書い ても不十分でうそになる、と言うように思えたのです。  

 図画の時間だってそうです。私は必死になって見えるままに、忠実に書こうとしました。そうすると花瓶一つ描くにしてもたいへんです。「あそこが少し
へこんでいて、あそこのふくらみは少しこっちよりも大きい」などと言うことを細かく観察していたら、いつまで経っても修正、修正で絵はできあがりませ ん。本当のことを描こうというのは大変なのです。そこで私は、「本当の姿をありのままに写し取りたかったら、写真をとればいいではないか」と思ったと たん、絵を描くのがばからしくなってきました。   

  (中略)
 

 文章にしても絵にしても、かくことの意味は、本当のことの中からとくに表現したいと思うことだけを抜き出して、そこで思いを新たにすることにあるの
でしょう。本当のことの中からとくにあることだけを抜き出せば、それだけでもはやそれは本当のことではなく、一種のうそになります。しかし、そこでと くにとりあげたことが、その事柄の最も本質的なことになっているときには、それはもとの事柄よりもさらに真実性をもつようになる、と言う不思議なはた らきが、文章や絵をかく喜びにつながるのではないでしょうか。  

 そこで私は、「もしかしたら、子供達に思い切って、うそをかけ、うそをかいてもいいと指導したら、子供達はかえって気軽になって作文や絵を
かく楽しさを発見できるようになるのではないか」とも考えてみました。  

 じつは、こんなことをいって作文指導の先生からこっぴどく叱られたことがあります。「うそをかかせたらうそつきになる」と、その先生は本気で叱って
くれました。しかし、私にはそう簡単に思えないのです。 ところが、幸い私と同じような考えを持つ先生がいて、実験してくれました。小学校低学年の子 供達に向かって、「うそを書きなさい」といって詩を書かせたのです。そしたら、子供達は大喜びで詩を作るのに夢中になったそうです。私の思惑も、全く のデタラメとはいえなかったわけです。 「うそのことをかけ」というと、子供達はかえって本当のことを書くようにもなるようです。本当のことを書くこ とは、何と言っても気恥ずかしいことが少なくはないし、本当のことでも、一面的にかくと、うそになっていることに気づいている子供達は、「うそをかい てもよい」というと、かえって本当のことを、気安く書くことができるようになるようです。  

  (中略) 子供達は、学校に入る前からうその世界を楽しむことを知っているのです。相手がいると勝手に想像するおもちゃ電話機のように。だとした
ら、作文や図画で「うそをかけ」「うそをかいてもよい」と指摘したところで、そのために「うそつき」になるとは単純に考えられません。「うその世界で 学ぶ楽しさを文章や絵にあらわすたのしさにのばしていって、作文や図画の能力を伸ばす手だてがあるのではないか」と思うのです。 少なくとも、「うそ をかいてもよい」というような、常識的には「だめにきまっている」指導法がかえっていいのかもしれない、と考えてみることができるほどの発想の自由さ がなければ、教育の研究も大幅な進歩を望めないであろう、と私は思うのです。  

  (板倉聖宣『科学的とはどういうことか』より)  そう、私もこの作者と同じだ。私はずっと「感想文をかけ、自分がこの文章で思ったことを書くん
だ」と責められていた。私はこの文章の作者のように、ふと考えた。書いて何の意味があるのだろうか、書かずに口で言えばいいだけなのに…。と思うと私 は感想文が思うがままに書けなかった。だから、私は感想文を書くこが、めんどうになってしまった。今回の文章も同じだ。だから私は「感想文を書くこと  

 ちなみに今回の文章、私は、創造は人間にしかできないものだから人間がやるべきだ、と思う。 
                               
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