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手間もたまにはいいものよ。 アジサイ の広場
まっちゃん あさも 高1

 イロリの社交は、家族結合の社交であった。一家団欒という言葉は言うまでもなく家族がおなじ火を囲んでいることを指した。一つの火を通じて心がかよ
いあう。そういう不思議な力を火は持っていた。家族だけではなく、客人もまた、同じ火を囲むことで、他人ではなくなっていた。火は人間を近づけるので ある。火の管理はたんに物理現象としての火を管理するというだけでなく、その火をめぐる人間集団の管理をもふくむものであった。人間はもっと、合理的 なもの以外の役割を見直すべきではないか。  

 そのためには、もっともっと、自然界のものに触れてみるべきだ。火や川や、森などに入ると心が和んだ気になるだろう(火も?)。別に森に行く必要は
全く無くても、目に見えないところで心身ともに癒され、十分に利益を得ているのである。家族のあたたかさもまた然り。一人で食べるご飯と、家族で食べ るご飯では同じものでも味が又違ったものになる。いがみ合って食べるご飯は例外。人間は「合理的」なものだけで一応は暮らしていくことが出来る。が、 目に見えないもの、「あたたかさ」や「癒し」なども実はなくてはならないものなのである。  

 また、学校教育などにも、ボーイスカウト風のものを取り入れるべきだ。(なんちゃって、ボーイスカウトがどんなことしてるのか知らないけど)小学校
などではまだ、心のつながりのほうを大事にしていたりするが、中学高校にもなると、勉強一筋!風で、修学旅行なども癒しに行くわけでも楽しみに行くわ けでもなく、単に「勉強」のためだけに行く。そういうのではなく、普段「勉強勉強」言っているのだからこそ、たまには休息も、必要なのではないだろう か。  

 たしかに、「合法的」以外のことばかりすると時間もかかるし、めんどくさいし、無駄が多い。しかし、四六時中パソコンの前に座り、缶コーヒーをのみ
、カップラーメンを啜り…というような生活は、目や健康にも悪いが、ココロに悪い。「人は食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのである 。」というが、人は合法的にするために生きるのではなく、物事を楽にするために合法的にやってきた。ならば、生きるために癒されてみたりするのも大切 なのではないだろうか。まだなお、合法的な方が良いと言うならば、メールで年賀状が来るのと、手書きの超こった年賀状が来るのと、どっちが嬉しいか、 よく考えてみたら良いだろう。  

 
                                                 
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