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清書:道徳か法か アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 高1

 法は、人民を統治する上で非常に意味のあるものである。というよりも、法自体人民を統治するために生まれてきたと思う。それで、よく「法は、道徳を
守るためにある」といわれるが、はたしてこれが正しいのだろうか。  

 例えば、順番待ちで列に並んでいたとする。つまりこれは、順番待ちのときは列に並ぶという道徳だ。そこへ、一人の人が、順番など関係ないといった顔
で割り込んできた。何か文句をいうと、きっと「割り込みはいけませんなんて、法律に書いてあるのかよ」といわれるだろう。割り込みはいけないなどとは 法律に書かれていない。皆、そういう部分の裁量は、法ではなく道徳ということになる。  

 では、法はどうか。これは、よっぽどひどい国家でない限り、窃盗や殺人は罰せられる、と定めてある。法にも違いはあるが、道徳や常識というものに比
べたら、断然わかりやすい。  

 法に関してはその特性上、おもしろい(?)
ことがある。法は(議会制を行っている国では)一人、あるいはごく少数の人間によって定められ、国民、地方民全員がまもるものだということだ。つまり、 法を定める指導者や議会が、偏った考え方をしていると、その国の考え方自体が偏ってしまうということだ。これは、道徳や常識にはない特徴である。  

 結局、道徳というものは集団の中において、自然に定められるものであって、法はごく少数の人間が、人民を統治する上で、必要に応じて作るものだとい
うことだ。僕は、道徳に従おうが、法に従おうが、それは自由だと思う(ただし、人間として最低限やってはいけないことはやってはいけないと思うが・・・)。 大切なのは、ソクラテスの言った「わたしはアテネ人じゃない。ギリシア人でもない。わたしは世界の市民である」という名言にあるように、日本人である から日本の道徳、法。アメリカ人であるからアメリカの道徳、法。イギリス人であるから・・・etc.ではなく、世界市民として、同じ心をもてとはいわないま でも、民族がどうのということはやめ、互いに協力し合うことが、輝かしい21世紀を生きるために必要なことだと思う。道徳も法も、真髄はこれだと思う。  

 
                                               
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