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インスタント アジサイ の広場
拓馬 ねき 高1

 最近、クラシック音楽は、コマーシャルに断片的に使用され、15秒の枠組みの中で使用されている。確かにこれにより、クラシックの「庶民化」は果され
たが、そもそもクラシックとは、作曲家と演奏家による、大きな人生観、世界観をきかせ、そして、聞き手はそれを「ながら聞き」でなく、体全体を「耳」と化 し、その大思想を聞きふけるのである。  

 「クラシック」という名前からして、何か甲冑を身に纏っているように思う人がいるだろう。それはやむを得ないことだ。なぜなら、「最近の歌」とか、「ポッ
プミュージック」などは、曲が4分程度で、深く深く聞こうとしなくても、全て聞き通すことができる。それに比べ、クラシックは、まとものなものなら、少 なくとも10分、すごいものは、楽章全て聞くだけで、40分以上、というものもある。しかも、多くのクラシックには「歌詞」がないため、作者の意図を感じ取 るのはかなり難しいものだ。それに、「歌詞」がないということは、「口ずさむ」ことも困難、ということだ。「ンッン~~♪」程度ならできるものの、やはりカ ラオケなどの娯楽に関しては、クラシックは、一般的という面で、かなり遅れていることになる。  

 ところが、そこに「TVコマーシャル」というものを当てはめることで、クラシックは一気に一般化される。もともと、大思想のもとに作られているものだ
から、それこそ一部分を切り取ってきいてみても、かなりのインパクトを与えることができる。与えるということは、それだけ印象に残るということだから 、そこが勝負のCM稼業とすれば、これほどいいものも少ない。こうしてクラシックの「甲冑」は取り去られ、その中の一部分をたしなむことが、クラシック における「今風」となっているようだ。  

 これなら今は亡き巨匠達も、「ヤッター、俺の曲が有名になっているぞ!これで俺も一躍トップスター!ハッピーウレピーよろピくねー」とおもって、成仏・
・・するはずもない。自分の思想の集大成とも言うべき曲を、一部聞いただけで分かったつもりになっている人間をみて、満足するだろうか。私もピアノをや っている身だが、音楽というものは、小説と同じだ。論文や学説なら、「つまり」の後を聞けば結論は分かる。しかし、小説はそうはいかない。人間関係を述 べたり、ことの発端を説明したりする文を省くことはできない。クラシック音楽も、これと同じだ。物語ができており、その物語の盛り上がっているところ だけを切り取ったところで、何も分かりはしない。音楽は、部分に切り取ることはできないのだ。  

 そもそも、「クラシック」という言葉は、「上品な」とか、「由緒ある」という意味である。キャビア料理の一部を持ってきて、茶の間に出したりはしないだろ
う。その如く、クラシックの一部をもってきて、なんとなく聞く、ということは、本来有り得ないことだ。もしもクラシックに興味があるなら、劇場に行っ てみると良い。ホントに好きなら、素晴らしく充実した時間をえられるであろう。しかし、かなり苦痛に感じたのなら、それは、その曲だけ嫌いなのか、も しくはクラシックというものそのものと相性があわないのだろう。それなら、早々にクラシックから手をひくべきだ。そうしなければ、ただの「知ったかぶり 」になってしまう。  

 「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである」という言葉の示す通り、クラシックは、いや、音楽は、自分にあうものでなければ
、意味が無い。音楽は、ファッションではないのだ。これは突き詰めれば、何にでも言える。例えどんなに有名な塾に入ったところで、絶対に東大に合格す る、というわけではない。結局、本人にどれだけのやる気があるか、だ。  

 ラーメンは、インスタントラーメンの登場で、急激に普及した。しかし、そこには、本物のラーメンのうまみはない。安くて手間なく簡単なインスタント
ラーメンがでても、多少遠いウマいラーメン屋に行く人は、いまだ後を立たない。そう、気軽に聞けるCMクラシックが普及しても、そこにクラシックの本質 なく、抜け殻の音の羅列が残っているだけ。ただその音の羅列は、ちょっとだけ人の耳に残るだけ・・・。所詮「インスタントクラシック」は、ドライアウトした 後の、ちょっとしたつまみ止まりなのだ。  

 
                                           
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