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花束の花粉 アジサイの広場
眠雨うき高2

 ひとの痛みのわからない人間が増えていると言われる。毎日のニュースでピックアップされる凶悪犯罪は数知れず、逮捕された犯人は頭の留め金が外れた
ようなコメントを述べる。中には犯行状況を手記に綴る犯人もいる。たくさん血が出た。人間は意外に硬かった。異常に客観的な記述たちは、他者への共感と同情を基盤としてきた、日本のアニミズムの揺らぎを感じさせる。 

 このような問題が起こりはじめた原因のひとつに、産業の発展に伴う子供の孤独があげられるのではないだろうか。共働きの親が日夜仕事をこなし、家で
留守番をする子供。あるいは親との会話が跡切れ、自室に閉じこもる子供。相手の身になるという感覚は、人と人との関わりの中で自然と身についていく。日頃もっとも身近な存在である親とのコミュニケーションが手詰まりになれば、子供の自我が他者を理解しないままに歪んでいくのも、無理なからぬことだ。私の家庭では毎晩決まった時間に家族で集まって一日の出来事を話しているが、このようなちょっとした会合でも、誰かと言葉を交わすという経験は貴重な宝となる。 

 またもうひとつの原因としては、ゲーム機の極端な普及があるだろう。家庭用ゲーム機は進歩し、他者と会わずともひとりで遊びをこなすことが可能にな
り、またそれが子供の当然の遊び方になった。友人と予定が合わずとも楽しめるのだから、自然と子供の遊びはゲームに傾斜していく。だが、ゲームの世界は決して道徳的な世界とは言えない。大抵のゲームは「××を倒す」ことが目的になっており、そのための手段として「○○を倒す」がある。機械は痛みを訴えないから罪悪感がつのることもなく、黙々と子供は仮想の虐殺を進めていく。大量殺人者は人を殺すことへの恐怖感が麻痺しているという。一々に気が滅入っては大量殺人などはできないだろうし、自我を保つことも難しくなる。ある面では心の防衛作用とも言えそうなそれが、現代の子供にも働いているのではないだろうか。 

 相手の痛みを想像することは、決して無駄ではない。痛そうだ、かわいそうだ、そうしたごく自然な感情の発露と共に、人の文明はここまで進歩したのだ
。ネアンデルタール人は、ひとり眠る死者へ花束を贈った。その身へせめて寄り添うようにと、願ったかどうかはわからないが。今や花束は土に埋もれ、花粉はコンクリートに覆われた都市をあてどなく舞う。現代に足りないのは、かつてのかれらの「同情」ではないだろうか。ひとの痛みを我が物のように感じる、古臭くも人間らしい、その風土ではないだろうか。                          
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