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清書:適応への教育 |
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横浜太郎 |
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あわか |
高1 |
もう何年も学校生活を送ってきて、率直な感想を言えば、上の学校(小→中、中→高)になればなるほど成績に対する教師の干渉みたいなものが大きくな |
るような気がする。小学校では回りも比較的そうだったので、勉強という概念がなかったのだが、中学校では受験というものがあるからしぶしぶ勉強した。 |
高校では入学式後のホームルームで、入学したばかりだというのに、担任から勉強・成績・(大学)受験の話があった。元来、勉強があまり好きではないので |
(顔だけみて「おまえ、がり勉だろ?」といわれることは多々あるが…)、なるべくなら勉強したくはないのだが、今の様子だと勉強しないわけにはいかな |
いようだ。それで、どうにか勉強しないで済むような、もっともらしい口実を探していたら、よく「学校の勉強なんか、社会に出たら何の役にも立たないよ |
」といわれているみたいで、学校不要論(?) みたいなものもあるみたなので、これを、学生という特権を利用して僕なりに考えてみた。 |
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以前は、典型的な数学嫌いということもあり、周囲に「微分積分ができたってね、何の役にも立たないぜぃ。フェッフェッフェ」とか言っていたが、まあ |
確かに、今でも一般的な家庭生活を送る分には、そんなに数学は必要ないかな、とは思っている(算数は必要かも…)。だが、好きになるというのは恐ろし |
いもので、あんなに数学を嫌っていたこの僕が、好きになったとはいかないまでも、数学の授業を受けるのが、それほど苦にはならなくなった。ただ、「苦 |
にならない=出来るようになる」という方程式にならないのがおかしなところだが…。 |
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学校教育とは、学生の僕が言うにはあまりにも厚かましいセリフだが、何かほかの自分の好きなこと、興味のあることと結び付けてはじめてその良さが表 |
れると思う。例えていえば、料理の調味料といったところだろうか。それ自体ではその良さはわからない。それだけポンと出されても、一口なめて捨てられ |
るだけだ。だが、他の、その調味料に見合った料理と出会い、食べる人の舌にあったとき、初めてその調味料の存在価値が表れる。そして、その料理自体は |
、調味料の使い方によっていくらでも変化し得る。だから、現在の学校教育を、食わず嫌いで否定するべきではないと思う。教育を有効化する良い方法があ |
るのだから。フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの数ある名言のうちの一つに、こんな名言がある。「教育の目的は、機械をつくることではなく、 |
人間をつくることにある」。確かに、教育をそっくりそのまま処理していたのでは、人間は単なる機械になりさがってしまうと思う。しかし、自分の興味と |
結合したとき、教育は、計り知れないエネルギーになると思う。これこそ、教育への適応、いや、適応への教育と言っても良いのではないだろうか。 |
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