先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
匿名社会の暗示 アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 高1

 科学の発達によって、我々の生活、価値観は随分変化した。騎士と武士についてもそうであるし、また、近年はインターネットの発達により、(インター
ネット上の)友達に対しても匿名で通るようになってしまった。インターネットは、本来が特殊な匿名空間であるため、現実社会では困難な、性別、年齢、 国籍などの偽称が容易にできる。それ故に、これもまた現実社会では困難な闇の世界へ、容易に足を踏み入れることができる。人間、自分が誰だかわからな ければ、どのようにでもと言ったら嘘になるが、ある程度普段の自分から逸脱することができる。普段は物静かな人なのに、インターネットでチャットをや っているときなど、まったく別人のようになる人もいる。以前、「KDDI」の宣伝で、チャットをやったら犯人がすぐ自白してしまったというCMがあったが、 これもインターネット上では人が変わるという例をついてきたものだ。では、匿名であれば、人はどんなことでも平気でできるのだろうか。また、匿名を名 乗ることにより、人心はどのように変化するのだろうか。  

 匿名が広まったことの大きな要因は、情報伝達手段の発達だろう。例えば、江戸時代にはもう新聞があったようだが、僕の知る限り、この新聞はほとんど
社会の情勢、動向を読者に伝えるだけ、つまり、一方的な情報伝達であったと思う。一方的であれば匿名を使う必要はない。しかし、近年の新聞の多くには 、読者の投書欄がある。読者が投書するということは、一個人が大衆に対して情報や考えを発することになり、大衆と表示される人は、必ずしも投書する人 に対し、友好的でない場合も多い。だからこそ匿名を使うのだが。要するに、匿名は特定の相手ではなく、不特定多数の情報の受け手に送る場合に、非常に 有効的であり、自分の社会的な立場を守る上では欠かせないものである。  

 社会的な立場を守ると書いたが、匿名を使うことは責任放棄ではないかと考える人もいるかもしれない。人は発言するにあたり、その発言に何らかの責任
を持たなくてはならない。しかし、匿名を使えば、責任のやりどころがなくなり、結局それが責任放棄につながる、そう考える人も世の中にはいるはずだ。 しかし、あえて匿名を使うということは、その発言をすると、社会的に何か不利な状況に追い込まれる危険がある、ということを本人がわかっているから使 うのであって、他人の立場もわからないものが、やれ臆病者だ、無責任者だとけなすべきではないと思う。インターネットのような、匿名があたりまえの空 間では、その「匿名制」ゆえに問題になることも多くあるが、「匿名制」でない『情報空間』の中では、発言しないでも済むのに、勇気を出して発言してく れていることを、匿名の2文字から読み取り、発言者をたたえる心構えが重要ではないかと思う。  

 近年、現実社会で、人と人との結びつきが薄れていっているといわれる。それにあわせるかのように、「匿名社会」がどんどん拡大している。匿名社会に
は、大きな上下関係はほとんど存在しない要に思う。現実社会では残念ながら、本質的に上下関係は消えないと思う。しかし、「上下関係の」『じ』くらい しか知らない僕が言うには厚かましいかもしれないが、現実社会の上下関係に疲れたからといって、架空の匿名社会に大きな逃げ道を作ってはいけないと思 う。漫画家、窪之内 英策は言う(書く)「歯車にだってプライドがあることを忘れるな」と。現実社会で匿名を名乗り自分の意見を語るのは良いことだと 思う。しかし、何でも匿名で通る匿名社会へ逃げ道を作ってしまったら、現実社会で生きていることが、ばかばかしく思える日が来るのではないか。人間は 誰しも不平不満を抱えていると思うが、すぐ匿名社会へ逃げ込んでしまったら、何千年、何万年もかけて築き上げてきた現実社会が、一瞬のうちに崩壊して しまう、そんな気がしてならない。  

 
                                                 
ホームページ