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障害は、才能を開花させる為の故である。 |
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クラシック |
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しふ |
中2 |
数年前、私は西アフリカのナイジェリアの東北部べエヌ河の河畔を一人の土地の盲人と二人で神話・昔話を採取して歩いていた。四十すぎの私と殆ど同じ年 |
と考えられる人であった。この盲人には実に色々な事を教わった。そのうちの一つが次のようなことである。 |
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或る時、彼の手を引いて山道を歩いている時に、彼は「目あきのおごり」というのがあるのですよ、と語り始めた。 |
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目あきは、何でも見えるために、何でも解ると思っている。ところが目あきが見ているのは眼の前に見えるものばかりでしょう。でも目あきが見ているも |
のの中で目あきが記憶にとどめるのは、その百万分の一にすぎない筈ですよ。そうでしょう、草の一本、一本、石ころのすべてを目あきは記憶しますか。し |
ないでしょう。 |
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私たち盲人は、一日単位では、目あきと較べるとたしかに何も見てないに等しい。しかし、明日・明後日と先に行くにつれて、私たちの方がよく見えると |
いうことに目あきは余り気がついていませんね。私たちはたしかに眼は見えません。しかしその代償として、心の眼を与えられています。心の眼は耳・身体 |
・足・鼻・その他諸々の器官を「見る」ために動員するのです。それに、これらすべてを融合して、「遠く」をみるために、周りのものに対する「優しさ」 |
が加わらなければなりません。暗闇は私達盲人にとって絶望的な試練を与えますが、それは又無限の優しさを曳き出して来ることの出来る源泉です。目あき |
の人にはこうした暗闇を凝視することは出来ません。私たちは、「心の眼」を通して暗闇の彼方から立ち現われる物を見ているのです。 |
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障害とは、重荷ではない。素質を開花させる為の故である。素質を開花させる為の試練である。 |
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うちの母は、よくこんな事をおっしゃった。 |
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「障害を持つ人、例えば目の見えない人、確かに一生目は使えないだろうけど、彼ら、彼女らは、目の代わりに何かすばらしいものを授けてもらっている |
のですよ。目の代償として、優しい心を授かった人、優秀な頭を授かった人人の心を理解し、最大限まで他人を気遣える心を授かった人、障害をもった方々 |
は、常人にも劣らない才能を持っているんですよ。」 |
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盲目でありながら、その壁に立ち向かい、小説家になったもの、東大にはいったもの、料理人になったもの、 |
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世界を一望し、悟りを開いたもの。 |
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彼ら、彼女らは、他人の痛みを知ることが出来る。他人の苦しみを理解することが出来る。 常人は、常に障害者を見下している。全ての人がそうではな |
かろうと、大半の人は、見下しているはずだ。 盲目の人々は、見ることは出来ないが、感じることができるのではなかろうか? |
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表面的にではない、全てのものの心に触れることができるのではないか? それは、私たち常人には、永遠に感じることのできないもの。 この世には、ダ |
メ人間もいなければ、スーパーマンもいないのである。 |
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