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詩的なダジャレ イチゴの広場
ひろりんあしゆ中1

 私たちが日常、言葉を使っているときは普通表される内容がまず合って、伝達する手段として言葉がある、と言う風に考えている。私たちは内容
のほうに関心があるわけで、それを運ぶ仲介役の言葉が入っていても言葉そのものにはあまり注意を払わない。しかし「かっぱ」と言う詩を読むと

「かっぱ」「かっぱらった」という言葉が出てきて、両方とも言葉が似ている。そうすると、「かっぱはいたずら好きの生物だから”かっぱらった
”という言葉はそこからきたのではないか」と興味を持つようになる。つまり言葉が新しい経験を作るのである。私たちは日常言葉の範囲内で使う ことに満足していてそれを超えることは稀だが、言葉の詩的な部分を見るといいだろう。  

 全く実用的でない言葉、ダジャレ。言うのもあほらしいが「ふとんがふっとんだ」なんていったらその場にはしらけ鳥が飛ぶ。そんなダジャレだ
が、しらけ鳥が飛んだ後、「おまえ何言ってんだよー」や「さむっ」などなど場が盛り上がるものである。私も実際「内容がないよう。」とつぶや いたら2秒ぐらい間を置いて「出た!!馬場ちゃんのダジャレ」「さむっ」とけっこう盛り上がった。その言葉言葉には実用的な意味はないが、「 ふとん」と「ふっとんだ」という言葉は似ている。かっぱの詩と同じように「もしかしてふとんが飛んでいってしまったとき”ふっとんだ”という ことになったのではないか?」という発想が生まれる。他のダジャレもそうだ。言えば「さむ・・」の一言で終わってしまうダジャレだが、詩的な 部分を見出せればもっと面白くなるのではないだろうか。  

 私は最近思うのだが、ダジャレを全部「さむっ」で流すのではなく、面白いときは「おもしろい」と素直に言ったらどうだろうか。今まで聞いた
ダジャレの中ですごいなあと思ったのが「明治天皇、なにやっ天皇?・・・目、いじっ天皇。」である。ここでいう詩的なダジャレだと思う。ただ のダジャレでも詩的なところに目をむけてみてはどうだろうか。考えてみると、「あ、なるほど。」と思えると思う。                                                      
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