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中立 アジサイの広場
たば星人あころ中2

 アポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートが、宇宙遊泳をしたときの感想は、「今ここにいるのは、『私』出会って『私』ではなく、
全てのいきとし生ける物としての『我々』なんだ。」  

 こんな、静かだが熱い確信が彼の心の中に生まれた。シュワイカートが体験したこの「私」という個体意識から「我々」という地球意識への脱皮
は、今、この地球に住む全ての人々に求められている。  

 確かに、地球意識のように規模は大きくないまでも、今の地球人には連帯感が必要だと思う。例えば、電車に乗っていてもいすが空いていないか
らと言ってそのまま座っているジベタリアン入るし、ところかまわず大きな声でしゃべっているオバタリアン(おばさん)はいるし、野菜を食べま くっているベジタリアンは入る(いないって!)。こんな、電車内で、胸を張って  

 「私達には、連帯感があります!!!!!!!!」
 

 といえるだろうか。絶対にいえないはずだ(どこでもいえないと思うが)。このような人達を自己中心主義、略してジコチュウという。とても迷
惑で、僕の学校の電車通学の友達などはかなり怒り狂っていたような気がする。僕のクラスにもジコチュウがいる。その人の名は、〇〇君。とても 、むかついて、ある意味クラスの連帯感が強まっているような気がする。〇〇君は、ある日こんなことを言った。  

 「なあなあ、~ってむかつくよな。」
 

 その場に、~さんがいるのにだ。一瞬その場の空気が凍りついた(カチーン)。とてもいい雰囲気とはいえない。そこで、会話がとぎれたままそ
の会話は終わった。かなり気まずくなってしまった。〇〇君の人のことを考えない一言で、楽しい会話が終わってしまったのだ。このようなときは 、やはりこのような発言はひかえるべきだと思う。  

 しかし、時には連帯感がない方がいいときもある。それは、このようなときだ。例えば、同じことをしている会社同士だ。全然競争にならないし
、談合事件を起こしかねない。このようなところは、連帯感がない方がいい。このように、時と場合によってはジコチュウになることも良いことな のではないか。  

 要するに、大切なことは連帯感を強くすることでも、ジコチュウになることでもない。大切なことは、連帯感を持たなければいけないときは持つ
、ジコチュウにならなければいけないときはなるというメリハリだと思う。「一人の敵も作らない者は、一人の友も持たない」という名言があるが 、まったくその通りで時にジコチュウにならなければ、連帯感ももてないと思うのだ。だから、やはりメリハリは大切だと思う。                                          
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