間 |
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ペー吉 | / | うき | 中3 |
話し上手の人間というのは、えてして「間」のとり方がうまい人間である。 |
いかなる名文句や文章力も、適宜余裕をもたせながらでないと効果が薄い。余 |
韻や余剰、ふくみ等はすべて「間」の活かし方に関わっている。自然に「間」 |
を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているものだ。 |
私も、他人とコミュニケーションをとるうえでの「間」は大切だと思う。綿 |
々と連なる言葉だけでは、相手の心までとどかない。この「間」は、時には空 |
白の時間であったり、行間であったり、脱線であったりする。私の周囲の会話 |
は大抵ボケとツッコミによって行われるが、この日常会話という名の即興漫才 |
にも「間」は必要とされる。延々ボケてツッコんでを繰り返しているだけでは |
面白くもなんともないし、やっている側も疲れてしまう。この「間」の呼吸は |
、関東と関西では微妙に違ったりするのだが、それはとりあえず置いておく。 |
私や私の友人は、芸人のカンか、無意識のうちにその「間」を実践している。 |
まさに習慣は第二の天性。会話を得意とし、会話を楽しむ人間にとってはごく |
あたりまえの行為なのだが、この感覚がつかみづらい人は結構つかみづらいよ |
うでもある。 |
また、演劇の脚本を開いてみると、ト書きの部分に頻繁に「間」という言葉 |
がでてくるのに気がつくはずだ。これは、舞台の上で演じているキャスト達に |
文字どおり「間をとらせる」ことを意味する。この時、舞台の上でなにもしな |
いというわけではなく、役者はキャスト達の「間」に対する感覚を表現しなけ |
ればならない。ある者は気まずそうにし、ある者はストップモーションになり |
、ある者は思考に沈む。「間」は様々な表情が見え、その存在によって舞台が |
一味も二味も深くなる。「間」という単語が書かれていない脚本を探すのは難 |
しい。少なくとも、私はみたことがない。演劇ではこの「間」の存在を、台本 |
の段階から既に注目し、「間」を考慮して舞台を作っていくのである。 |
「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉がある。雄弁細工の上にちりばめられた |
沈黙の飾り。金単体、銀単体であるよりもはるかに価値あるはずだ。適度な「 |
間」のちりばめられた言葉は、趣味のよい美しさをもって存在するものである |
。時間に追われ、毎日が早い生活を強いられている現代人は、まず「会話」と |
いう人類のコミュニケーションの原点に戻り、そこから「間」の重要性を見出 |
すべきではないか。早足で生きるのでなく、適度に余裕をいれながら生きるべ |
きではないか。 |