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科学技術は
アジサイの広場
武照あよ高2
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 死人の山の上を勇ましく歩む一人の女性。右手には大きくはためく旗を掲げ
、茶色の空にひときわ輝いている。
 
 これはフランスの画家ドラクロワの描いた「民衆を率いる自由の女神」であ
る。最近、上野の国立美術館で公開され、その混雑ぶりは記憶に新しいであろ
う。しかしおそらくこの混雑ぶりは「民衆を率いる自由の女神」の有名さにあ
るのであって、この絵自身の芸術的評価ではない。我々がこの絵に持っている
イメージは「形式的表現にとらわれた古典的作品」であって決して良いもので
はないのである。しかしながらフランス人自身の持つこの絵のイメージは日本
人の「有名さ」や「古典的作品」といったものとは大きく異なると聞く。ある
フランス人評論家はこの絵を「フランスのゲルニカ」と表現した。フランス人
にとってこの絵は自国の文化に根差した物なのである。これは何も芸術の問題
に限らない。思想から道具に至るまで、あらゆる物を我々は田の文化から輸入
してきた。しかしそれは多くの場合、形式に留まっているであろう。他国の文
化を理解するためにはその形式のみでなく、「心」に眼を向ける必要があるで
あろう。
 
 ではそうすればよいのであろうか。それは自分の世界を持つことが大切であ
る。外国人に「あなたが日本的だと考える場所はどこですか」と聞かれた場合
どう答えるであろうか。「んと、金閣寺と…、日本庭園と…、秋葉原!」この
様に答えればおそらく日本人としての美的感覚を疑われるであろう。自分が日
本という国にしっかりとした、心を持ったイメージを持っていなければ、他国
の文化を表面的にしか理解することはできないであろう。
 
 しかし、形式を取り入れはするが、「心」を取り入れていないことは身近に
多く見られることなのである。「古典は原文で読んでこそ意味がある」と言う
ことを良く聞く。同意する所がないわけではないが、多くの場合それは誤解を
含んでいると私は思う。例を挙げれば誰でも知っている作品に「我が輩は猫で
ある」という小説がある。その「我が輩」であるが、当時の使われ方はやや砕
けた感じを持つ一人称を表した。つまり今の感覚で言えば「オレ」に近い物で
あったのではないかと思う。現在われわれが「我が輩」という言葉を見た時、
日常よりずっとかしこまったイメージを持つのではなかろうか。文学作品はそ
の当時の語感に根差して生み出される。そしてまた時代が変われば当然語感も
変化するのである。よくできた現代語訳は時に原文よりも作品の「心」を表現
しうると私は思う。
 
 確かに形式のみを輸入することによって、その形式を自国の文化に合わせて
書き換えることも重要である。クリスマスが「キリスト、マス」であることを
知る日本人は少ない。日本のクリスマスは宗教のお祝いではなく日本のお祭り
として定着したのである。だが形式を見てその心を理解したと誤解することは
多い。それは相互理解において最も避けなければいけないであろう。個人もま
た文化を持っている。相手の人間の文化を本当に理解することができれば、相
手の「心」をもっと知ることができるはずである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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