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地図
アジサイの広場
拓馬ねき中2
子供の頃に、道に迷わなかったのはなぜだろう。逆説になるが、それは地図を
持っていなかったからだろう。子供は、いろいろな経験によって道を覚える。
これは動物の本能的なものである。
 
 しかし我々は、地図という文化によって、行動範囲を広げるが、同時に迷う
可能性も増していると言える。地図だけでなく、バス停や住居表示などの手が
かりもまた、その文化の一部であるといえるだろう。
 
 こうした、人間の作り出した情報は、行動の助けになるものであると同時に
、時として逆の結果につながる危険も常に伴わせているのだ。
 
 例えば、地図を全く逆に見ていたら、山に迷い込んで、そのまま遭難という
事態にならないとも限らない。この場合、地図は道案内ではなく、遭難を誘発
したうそつき、という事になる。このとき、地図を持っていなかったとしたら
、人に道を聞くなどして、決して別の場所に行くような事にはならなかったは
ずである。もっと言ってしまえば、地図の見方をわかっていれば良かったので
ある。このように、いかに便利な文明の利器があっても、使用法を間違ってし
まえば逆効果になってしまうのである。
 
 ここまできて勘違いしないでほしいのは、人間の作り出したものが完全に悪
いというのではない、という事である。前途したものしたものは、言いかえれ
ば、他人から見聞きした情報と言える。人間は一人で生きているわけではない
。当然、たくさんの「輪」の中に自分がいるのである。その「輪」を無視する必要
はない。正しい理解と関心のもとでその文明の利器を利用するのには、他言は
無用である。言葉を使って他人に危険を知らせたりできるのは、人間だけであ
る。ここに来て、言葉の伝達を妨げるような事をする必要はない。
 
 つまり、自分の経験を生かしながらも、その他から来た情報でさらに視野を
広げるべし、ということである。昔話、「桃太郎」から考えてみよう。桃太郎
という「自分」に、動物たちという「他からの力」があって初めて鬼を倒せたのだ
。この通り、他人からの助けも大変重要になっている。(かなりこじつけては
いるが)
 
 ただし、何度も言うように他人からの情報は、あくまで参考であって、その
情報を自分の行動の全てにするのはうなずけない。他人からの情報を全て自分
の行動にしていたら、いずれ必ずどこかでぼろが出る。自分で情報の善し悪し
を判断し、どれを自分の行動にとり入れるかを考える事が大切だということで
ある。自分が必要としていることは何か、一番大切な事は何かを常に試行錯誤
していくべきなのである。「多すぎる休憩は、少なすぎる休憩と同じ位疲れさ
せる」という言葉の通り、「適度」に情報を得る事が大切なのだ。その「適度」は
、自分のさじ加減である。最終的に自分の事は自分で決めなければならない。
そのために、しっかりとした自覚と考えと哲学を持っていてほしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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