眼 |
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拓馬 | / | ねき | 中2 |
目あきの者は、眼の前にあるものはよく見える。故に、なんでも分かると思 |
っている。対して盲人は、物理的なものは一切見えない。しかし、「心の眼」と |
いうもので暗闇の彼方から立ち現れるものを見ている。 |
私達は、損得づくで使っている言葉や話の筋で他の事柄と表面的には結びつ |
けるけど、深い層でのつながりを断ち切ってしまう。 |
生態系には、一見すれば、荒唐無稽でばかばかしくて無駄な事が満ち満ちし |
ている。しかし、その中には、調和してききるための生物の叡智が働いている |
のだ。自然との調和こそ、私達人類が生存し続けるために避けることの出来な |
い原則になった。 |
目の前のものにとらわれて、そのものの真理を見つめ様ともせずにそのもの |
の全てを知った気になるのは、私達の悪い癖である。表面上のものしか見ない |
。だから昔から、「地球は平たい」とか、「地球が動くはずがない」とか(なんか |
地球のことばっかりだな…)、今から見れば、とんでもない誤解をしていた。 |
その原因は、やはり、自分の見えている範囲でしかものを考えられないという |
私達の性質だと思う。 |
かといって、目の前のものだけで考える、ということも、必ずしも悪いとは |
言えない。常に物事の真理を見つめていると、どうしても、悪い事が見える時 |
がある。ある人間が何か行動する時に、その者のこれまでの行動で、その事の |
良し悪しまで決めてしまわないということも無きにしもあらずである。しかし |
、そのものだけをまっすぐに見つめられれば、もしかしたら、良い事じゃない |
とも限らない。だから、その裏に見え隠れするものを気にせずに、あった事実 |
を率直に見れる。 |
目に見えない真理の世界を見破るのは、かなりの修練(でいいのかな?)をつ |
む必要がある。中途半端な見方をすれば、物事の悪い事ばかり見え、疑心暗鬼 |
に苛まれ、被害妄想にかられるだけである。「走れメロス」に登場した某国の王 |
は、まさにその代表格といえよう。「私には皆の心が手に取るように分かる。」 |
みたいなことを言っておきながら、実は自分の思い過ごしているだけ、という |
非常に質の悪い感じの人間である。これなら、何も考えず、表面だけで考えて |
いた方が、まだいい。はっきり言ってしまえば、目が見える者は(無論、私を |
含めてだが)、自分が「目が見える」と思っている限り、絶対にそのような真 |
理を見つめる眼を養うことは出来ない。ある程度の逆行があってこそ、そのよ |
うな「眼」は養えるのである。 |
物事の真理を見つめる眼と、物事の裏の事情を盗み見る目は、全くもって違 |
うのである。ただ、この文を書いていて思ったのは、物事の真理を見つめる眼 |
と、表面だけを純粋に見る目は、同じにあらざるも遠からずということである |
。物事の裏に捕われず、確実にそのものだけを見ているということは、同時に |
真理も見えようとしているのだと思う。灯台下暗しとは良く言ったもので、物 |
事の真理を見ようとすればするほど、真理は遠ざかっているものだと思う。し |
かし、「出口の無いトンネルはない」という言葉通り、どんなに暗い道にも、 |
歩んでいけば、いずれ光りは見えるのである。そうでなければ、この世には、 |
真理は存在しないはずである。存在していれば、「眼」を通して必ず見えるは |
ずなのだから。<img |
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alt="img">←真理 |