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伝統の根を持たぬものは
アジサイの広場
武照あよ高2
 エヌ氏は新しい物が大好きだった。誰よりも早く新しい物を手に入れ、それ
を他人に自慢することが生きがいだった。そんなエヌ氏にある日、セールスマ
ンが尋ねて来て言った。「我が社では、人間を未来まで保存する装置を開発い
たしました。あなたが第一号となりませんか。」エヌ氏は喜んで承諾した。数
十年後、エヌ氏は目覚めた。エヌ氏は街を歩いてみるが、分からないことばか
り。エヌ氏は呟いた。「私はこれまで、新しい物を他人に自慢するのが生きが
いだった。それが逆の立場になるとは。やれやれ、今回ばかりは急ぎ過ぎたよ
うだ。」
 
 これは星新一のショートショートの一話であるが、現在の日本はこれと良く
似た状態にあるのではなかろうか。戦後、日本は欧米の文化を、多くの場合無
条件に「折衷」という形で受け入れてきた。新たな物を、日本の文化として消
化しきらぬうちに、さらに新しいものを取り入れてきた。そして気付いてみる
と、「エヌ氏の数十年」が消えていたのである。我々はもう一度、我々の原点
を見直さねばならないだろう。
 
 我々が新たな物を取り入れる同時に原点を見失ってきた背景として、19世
紀の前半にヨーロッパで発達した、社会は段階的に進歩するという思想がある
であろう。産業革命の波に乗って、現在よりも優れた未来が約束されているか
に見えたのである。その中からダーウィンの進化論が生まれ、現在の資本主義
を支える思想の一つとなっている点は興味深い。新しい物は良い物という考え
は、その正否は別として、戦後の日本が古い物を片隅に追いやった一つの原因
と言えるであろう。
 
 一見矛盾するようだが、新たな物を良い物とする考え方と対になって存在す
る「古典偏重主義」が伝統の実態を薄れさせているという点も忘れてはならな
い。卑近な例で言えば、「ハリウッド版ゴジラ」が世に出た時、マスコミは感
情的なレベルでの批判に終始ことを覚えている。「コンピュータ・グラフィッ
クスで出来たゴジラはゴジラではない」「ゴジラは一歩一歩重々しく歩いてこ
そゴジラなのだ」といった意見である。監督が違えば表現が異なって当然であ
ろう。つまり日本の「古典偏重」は「古典」と言う記号、あるいは形式の尊重
を意味するのである。食器という実態を鎌倉彫りが失いつつあるように伝統の
形式化が日本文化の原点を更に見えない物としているのである。
 
 確かに原点が見えないからこその身軽さもある。原点にとらわれ過ぎると、
伝統は変化し、新しくなるべきものという考えを見失うことになりかねない。
星新一は次のように書いている。「私は今回文庫を出すに当たって、古い作品
は大幅に書き換えました。またそうすべきだと考えています。電話のダイヤル
を回すという行為には昔は、あるイメージがありました。しかし社会の変化に
ともなって書き換えました。私はこれまで多くの話を書いてきましたが、古典
として残る物は一つも無いでしょう。しかしこの中の一つでも「民話」として
語り継がれれば、それ以上のことはありません。」
 
 形式ではない、実態を伴って変化し語り継がれる「民話」のあり方が現在の
「伝統」に求められている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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