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いとこげんか
アジサイの広場
ミッキーけく小5
 ことばの生活には、ときどき、言いにくいことばがあらわれる。「忘れまし
た。」もそのひとつである。このことばを言うとき、わたしたちの声は、小さ
くなったり、不明確になったりしやすい。自分のここがまちがっていたとか、
この点がたりなかったとか、自分でみとめて、それを否定すことであり、そう
することで、私たちは強くなる。
 
 私はこの長文を読み、一番に、筆者の言っている通りだと思った。なぜなら
、みんな、
 
 「私(僕)がやりました。」
 
 というところだけ、声が小さくなるからだ。「いいわけ」をいうときだけは
、大きな声で、話しているのに。
 
 「だって、諒君が、先に言ったじゃない。」
 
 しくしく泣くいとこを、横目で見ながら私は言った。でも、先に手をだした
のは、『私』だ。「先」というより、手を出したから、いとこは泣いてしまっ
たのだ。まだ、幼い私はいとこと「口」でけんかができなかったのだろう。手
をだしてしまったのだ。お母さんたちがやってきて、まず、私を叱った。
 
 「諒君にあやまりなさい。」
 
 というのだ。私は、あやまらなかった。自分が正しいと思ったからだ。あや
まらなかった。そうして、時間がどんどん経過した。やっと、落ち着いた私と
いとこは、おたがいにあやまった。けれど、やはりその時の声は、けして、大
きいとはいえなかった。一件落着(?)
 
 私は、たしかに、自分のあやまりをみとめることは、大切だと思う。「親し
きものにも礼儀あり」といわれるほどだ。それに、さっきのけんかでだって、
そうだ。
 
 いつまでも、「自分は正しい。あいては、悪い。」なんてかんがえていると
、ものごとは、全然進まない。もし、お母さんたちがいなかったらどうなって
いたのだろう…。 この世の中には、幼いころから、完璧の人なんて、いない
のだから(?)もし、私がそんなひとだったら、いとこは、けんかで涙をなが
すことなんてなかったのに。もしも、本当に、私がそういう人間であれば、幼
いころから人の心を考えてあげられるような人であれば…。どんなによかった
のだろう。戦争がさかんな時代と、けんか一つもおこらない平和な時代ほどの
差だ。(あっ、でも、こういう表現をするとけんかをしちゃ、いけないみたい
だな。)つまり、私が言いたいのは、「けんかするほど仲がいい」と言われる
からけんかはしていいのだが、相手の気持ちも理解して、あやまることがたい
せつですよ。ということだ。
 
 わたしは、「けんか」についてかんがえたことで、あやまることは、やはり
大切だと思った。
 
 私といとこの「いとこげんか」は、手から口にかわり、いまだに、続いてい
る・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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