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ポイ捨て
アジサイの広場
冨田あよ高1
 車の窓から空缶が放り投げらる。画面が切り替わり乗用車のドアが開きたば
この吸い殻が道路に捨てられる場面が映し出される。それを見ていた少年が言
う。「自分の家の前でも捨てるのかなあ……。」
 
 これはテレビのコマーシャルであるが、この「自分の家の前でも捨てるのか
なあ」という一言にはぽい捨てに象徴される重要な問題が含まれているように
思われる。吸い殻を道路に捨てた人を注意するときっとこう言う答えが返って
くるだろう。「私が何をしようと個人の自由だろ。」ジュースの缶に「缶はく
ずかごに捨てましょう」と言ったことが書いてあるが注意を促す以上の強制力
は持たない。それはぽい捨てという行為が全く個人的行為であるからである。
戦後権利という力と共に個人の領域はどんどん拡大していった。個人の権利が
増えていくと言うとよいことばかりのように思えるが、自分は自分、他人とは
関係ないと言った態度が生まれてきたのも事実であろう。ホテル家族やプリッ
グ症などは「私」の拡大による弊害を象徴的に表しているように思われる。そ
してまた「ぽい捨て」も例外ではないだろう。「私」が拡大するにしたがって
忘れられてきたものに「公」という考え方がある。この「公」をもう一度見直
していくことが大切であろう。
 
 ではどうすれば良いのか。それは「自分の家」を出ることである。我々はつ
い私的な空間に閉じこもりがちである。私的な空間は誰にも気兼ねしなくてよ
いし自分の自由なことも出来る。しかしこのような環境の中では「公」という
感覚は生まれてこない。以前読んだ文章の中に次のようなものがあった。「現
代の既婚女性が美しくないのは、核家族化の中にあって日々目にするのが夫と
子供だけだからである。以前は妻という立場は共同生活の中での公人であった
から、自分が美しく見えるよう気を配っていた。」内容の是非はともかくとし
て「公」という感覚が昔よりも薄れたというのは事実であろう。定期的に私的
な空間から出て、他人と目と目を合わせコミュニケーションを取ることによっ
て自然に「公」という感覚や、「公」の為にすべき事というのは分かってくる
であろう。
 
 確かに「公」の拡大ばかりが行われると、戦前の日本のように没個的な社会
というのが生まれる可能性がある。しかし「公」の欠如した結果共同体として
の秩序が乱れてきているのが現在の状況であろう。どちらも極端な形で機能す
るものではない。我々のちょっとした努力で「私」と「公」の共存させるのが
これからの課題であろう。「空き缶はくずかごに捨てる」「たばこの吸い殻は
責任をもって処理する」…たったそれだけの努力である。