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      成功と失敗
アジサイの広場
小林ねき中1
 日本のとある会社が、香港で「日本語の出来る人を求む」と求人広告を出した
。すると瞬く間に「我こそは」という香港人が集まってきた。しかし、そのほ
とんどが挨拶程度しか出来ない人達であった。逆に、日本で道行く人に、英語
をしゃべれるかどうかをきいてみると、それなりにしゃべれる人でも「まあ多
少は出来ますが…」という感じで答えるだろう。日本ではそれが「謙虚さ」となる
訳だが、外国では、「何だ。それなら使えんな。」といって、すぐに切り捨てら
れてしまう。外国では、「積極性」が肝心なのである。
 
 日本には、個人の秘めたる力を出来るだけ伸ばさないようにする基盤がある
。だから日本人は、「打たれる杭」にならないように、「謙譲の美徳」と称して
、出来ることをさも出来ないかのようにしているのである。
 
 日本人はほんとに引込み思案である。学級委員で以前アンケートを取ったと
き、「よい」「まあまあ」「悪い」の中で一番あっているものを選ぶというと、
たいてい「まあまあ」というのが多いのだ。『自分は悪くはない。しかし、良い
と書くのも気が引ける。ならばまあまあにしよう。』という感じで選んでいる
のだろう。私は出来るだけまあまあという選択肢は選ばないようにしている。
まあまあというのは、良くも悪くもないという中途半端な意見だからである。
私は余り中途半端ではっきりしないのは好きではない。そんな意味で、私はま
あまあというのを、適当な判断だと思う。また、こんな例もある。授業中に、
先生が、「この答えがわかる者はいるか」ときいた時、私は答えがわからなかっ
た。しかし、小声で、「この答えはそれだよね」といっているのがきこえたので
、私はその通りにいった。そしたらあっていて、なぜあっているのに言わなか
ったんだろうと思ったが、後で考えてみれば、誰も手を挙げていない時に自分
が言って間違っていたらどうしようという気持ちがあったのだと思う。はっき
りいって、なぜそんなことを思うのか私には到底理解できない。自分で言えば
自分の利益になるのに、人に言われてしまってはもったいないではないか。ま
さに、自分の映画を人にのっとられたような者である。謙虚といえば聞こえは
いいが、要は自分で自分の権利を失っているのである。
 
 1997年のフォーブス調べによると、世界一の富豪は、アメリカのビル・ゲイ
ツで、4兆3680億円という、庶民の私たちからすれば、考えられない数字である
。ちなみに、世界二の富豪はアメリカのウォルトン一族、世界三はウォーレン
・E・バフェットである。やはり、日本人の名前はどこにも見当たらない。知
っているだろうと思うが、ビル・ゲイツは、マイクロソフト社の火起こし役で
ある。やはり、人に譲っていてはだめなのである。自分で考えて、自分で行動
しなければならないのである。
 
 「経験は最良の教師である」という名言がいう通り、何事にも積極的に、失敗
を恐れずに行動しないと大成功は望むべくもない。以前私が読んだ本にも、「
成功者は、たくさんの失敗があって、それを乗り越えて初めて成功したのだ」
と書いてあった。やはり、失敗から学ぶ物をえようともせずに、失敗を放棄し
ていては、成功もまた無いのである。失敗は成功の母、成功は、多くの失敗と
いう果てしない努力と根気のたまものなのである。