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ひとこと
現在、子供の
アジサイの広場
小原おき高3
現在、子供の
 小原 正之
 最近、「子供」の問題が大変捉えにくく普通の問題のように分析的に捉えていってもあまり意味を成
さない。そこで、専門家が専門的な知識を多く持ているだけでなく、専門的な知識そのもの弊害を見
破り、それに囚われない必要がある。専門家は、職業上こうした「子供」の問題において、子供たちに
対して、「落ちこぼれ」や「非行」などといったレッテルを貼る。だから、むしろ専門エージェントの権
威を持たない続に言う「裸の人間」というのが、専門的知識によって囚われない眼を持って相手に接する
ことができるだろう。
 私は、以前ドラゴンクエスト6をやっていて、教会で勇者やその仲間達が生き返るのを何度も見た。
教会にいる人が神に祈りをささげて死者を復活させるのを幾度も見たのだった。あまりに何度もこの
生き返る場面を見たので見慣れた光景となってしまったが、実際は祈りで人が生き返るというのは人
間の愛情や情熱でこもっているので感動的なものなのだろう。
 また、こういう話を聞いたことがある。オオカミが人間の女の子を見つけて食べようと思ったが、
その女の子が大変純粋に愛情を持って接しために、オオカミはその子を食べなかったというのだった
。こういう場合、普通の大人の人間であれば、オオカミを目の当たりにすれば恐怖に駆られて、逃げる
のであるが、子供のような純粋な心の持ち主であったからこそありえたのであろう。
 確かに、専門家が様々な問題に対して、多くの知識で分析的に捉えて、その結果から問題を対処する
ことも論理的であり必要なことかもしれない。しかし、例外のない法則はないのである。だから、我
々には、全てを専門的な知識を持って解決するのではなく、時には、特に「子供」の問題を扱うよう
な時は、素人のような専門的知識を持っていないような人間が、心から情熱を持って接していくこと
が大切なのである。