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魏志倭人伝によると
アジサイの広場
冨田あよ高1
 背広を着た太った男が倒れている。その男の顔には苦痛の表情が浮かんでい
る。彼を苦しめているものは…手足に食い込んだ二本の時計であった。
 
 この「時計に縛られた人」は日本経済新聞ポスターコンクールで最優秀賞に
選ばれた作品である。シンプルな構成に淡い水彩で現代人の問題を滑稽に抉り
出している。言われてみると我々の社会は社会全体が共通の時計によって動い
ている。そして我々自身もその時計に合わせることが社会で生きるにあたって
のルールとされているであろう。しかしアインシュタインではないが時間はも
っと可変的なものではなかろうか。我々はつまらない授業を聞いている五十分
と本に没頭している五十分では全く違って感じるはずである。絶対的で合わせ
るものとしての時間ではなく「使うもの」としての時間を我々は見直していか
ねばならないだろう。
 
 それにはどうすればよいのであろうか。それは心の中に流れる時間をもっと
大切にすることだ。我々はつい目的のために生きてしまう。しかしそこに流れ
ているのは仕事を何時何時までに仕上げるようになどという目的のための時間
であろう。もっと今の時間を大事にすれば車窓を流れる景色を見る余裕が生ま
れる。「今」は目的のための付属品ではない。生きていること自体を我々は目
的とすべきであろう。
 
 しかし現実は絶対的で合わせるものとしての時間が我々の生活の中心部分を
占めている。朝、私は朝食を摂りながらテレビをかけている。番組を見るため
ではない。画面の左上の時計を見るためである。バスが来るまであと十分とも
なれば朝食は途中でも切り上げ歯を磨きに行く。画面に秒単位で時間が表示さ
れる時代が遠からず来るかもしれないと思うと、ぞっとするのは私だけであろ
うか。かぐや姫だって時間厳守でなかったらもうしばらくおじいさんのもとに
いれたものを。
 
 確かに絶対的で合わせるものとしての時間が今の社会の近代化に不可欠なも
のであったことを忘れてはならない。工業の大量生産も滞りなく生産が行なわ
れなければ意味がない。交通においても信号が気分次第というのでは発展もな
かっただろう。だがチャップリンが「モダンタイムズ」で見せたように合わせ
るための時間が人間から人間性を失わせているのも事実であろう。人間は自ら
考えるものでなくてはならないだろう。朝日新聞の夕刊の四こまマンガで締め
切りに遅れて原稿を迫られる作家が出て来るが、本来人間の創作活動は「合わ
せるべき時間」ではなく「心の中に流れる時間」によってなされるものである
。「時計に縛られた人」が開放された時、その男は自ら想像することの楽しさ
に気づくであろう。