魏志倭人伝によると |
アジサイ | の | 峰 | の広場 |
遠藤 | / | せて | 高2 |
「時」は人によって違うものである。使い方も、見方も一つずつが違った生 |
きたものであり、手で捕まえられるものでもあり、目で見たり、耳で聞いたり |
することの出来る「もの」でもある。私たち、現代人の感覚では「時」あるい |
は「時間」を、私たちの人生がその上に展開する座標として捉えてしまう。時 |
間は決して共通のものではなく、一つになってはいない。実際私も「受験まで |
後1年」などと言われるとなぜか焦ってしまう。これも一人一人の「時間」に |
対する感じ方だ。 |
友達の通っているある学校では、「チャイム」がならないと聞いた。別に壊 |
れているわけではないが、生徒自身が自分の時計を見ながら行動しなくてはな |
らないのである。一見、これは「自由」であり、時間に区切られている私たち |
の学校生活には信じられないことであり、うらやましく思った。しかし実際、 |
自分で時間を考えて行動するということは、とても難しいことだ。子供の頃か |
ら時間によって区切られて生活してきた私たちには、自分自身の気が向いたら |
行動する、というようなことが今までと違った未知のものであるからだろう。 |
浦島太郎は、助けた亀に竜宮城に連れていってもらったが、竜宮城は時間の |
感覚を忘れさせてくれる夢の国であり、浦島太郎は、何百年と竜宮城にいた。 |
これも一つの時間の使い方だ。「時」というものは、人によって感じ方も違え |
ば、使い方も異なったものになってくる。浦島太郎が何百年もそこにいたと思 |
ったから、竜宮城にいる時間が何百年という月日になっていたのかもしれない |
。 |
現代の人間に最も必要なものは、「時」を人生の中の座標と考えて時間通り |
に行動することではなくて、「時」を生きたものとして捉えることだ。時間中 |
心の世の中であってはならないのである。そして将来、時計のなかった古代人 |
の生活のように気の赴くままに人生を送ることが出来たらなと思う。 |