問題集読書は、入試問題集の問題文だけを毎日数ページずつ読書がわりに読むものです。読む力のある子には、こういう文章を読むのは楽しいものです。しかも、問題を解く必要はないので気楽に読めます。
しかし、よくできる子であっても、小学校5年生ごろでは年齢的にまだ少し難しい面があるようです。難しさのなかにも面白さを感じることのできる学年は、平均すると小学校6年生以上になるようです。
問題集読書の読み方で大事なことの一つは、線を引きながら読むことです。線を引く箇所は、自分なりによくわかったところ、面白いと思ったところです。決してその文章の大事なところに線を引くというのではありません。勉強として読むのではなく、自分の興味の赴くままに読むということです。
問題集ででもう一つ大事なことは、その線を引いたところを中心に四行詩を書くことです。四行詩は、4行で書く詩です。ですから、長くてもせいぜい100字、短ければ20字程度の詩です。
四行詩は、読んだ文章の一部の引用でも構いませんし、自分の感想を書くかたちでも構いません。
四行詩の外見上の条件は四行で書かれていることですが、内容上の条件は、光る表現があること、自分なりの創造や発見があることです。これは、条件というよりも、四行詩を書くときの心構えのようなものです。
小学校6年生や中学生、高校生の子供が書いた四行詩を読んでみると、どの子の詩にも必ず何ヶ所かは、光る表現やその子なりの創造や発見があります。だから、この四行詩はその子にとって、宝物となる可能性があります。
しかし、そのためには、やはりしっかりしたノートに手書きで書く形にしたいと思います。作文用紙にバラバラに書いて先生に提出する形だと、せっかくの四行詩が散逸してしまう可能性があります。
そこで、現在考えているのは次のような方法です。
まず、四行詩はノートに手書きで書きます。そして、その週に書いた四行詩を携帯のカメラで撮ってウェブの自分の記録用のページにアップロードします。そうすれば、担当の先生もその手書きの四行詩を見ることができます。(もちろん、わざわざそういうことはせず、自分で四行詩を書いているだけでもかまいませんが)
更に、四行詩の投稿ページを作り、よくできたものはパソコンから書き込めるようにしておきます。ちょうど、今ある「
ダジャレの広場」のような投稿ページです。
アナログ的な手書きのよい面を残しつつ、デジタルの世界での共有を図るということを、手書きのノートと携帯のカメラというツールを使って実現していきたいと思っています。(おわり)
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読書は、自分の好きなものを読むのがいちばんと書きました。それは、毎日読むことが大事だからです。読み続けているうちに、必ず自分なりの読書の仕方が身についてきます。
その意味で、漫画も悪いものではありません。読書が好きな子は、例外なく漫画も好きです。逆に、読書の嫌いな子は、漫画も読まないことが多いものです。
しかし、同時に、読書の本当の意味は難しい本を読むことにあります。難しい本を読むことを、ここでは難読と呼びます。(「難読」の辞書的な意味とは少し違いますが)
やさしい本を十冊読むよりも、難しい本を一冊読む方が価値のあることが多いものです。
だから、バランスよく言えば、自分の好きな本を多読でバリバリ読み、その中でも、特に気に入った本は復読で何度も繰り返して読み、その一方で、難しくて歯が立たないような本も難読でコツコツ読む、というのが読書の理想の姿だと思います。
そして、この中でいちばん欠けがちなのが難読です。なぜなら、読んでいてもわからないことが多いのでつまらないからです。
ちなみに、私がこれまで読んだ中でいちばん難しい本だと思ったのがヘーゲルの「精神現象学」です。何しろ、全ページ、どの文章を読んでも意味がつかめません(笑)。日本語に訳している人も、ドイツ語を日本語に置き換えているだけですから、たぶん内容を理解しているわけではなかったと思います。
それでも、こういう本を読み終えると、必ず自分の中に残るものがあります。それが自分の考え方の核になります。
この考え方の核というものは、やさしい本をいくら読んでも身につきません。
それは、ちょうど人間の経験についても、やさしい経験をいくら積んでも一人前にならないが、死ぬか生きるかという瀬戸際の経験をすると、ひと回り成長するようなことと似ていると思います。
さて、そんなにオーバー話ではなく(笑)、子供も小学校5、6年生から中学生ごろ年齢が上がると、難しいものや困難なものに挑戦したいという気持ちが自然に生まれてくるようです。
楽しくやさしく楽にできるものを喜ぶのは、小学校4年生ごろまでです。小学校5年生ごろからは徐々に、難しくて苦労するものや挑戦するものに喜びが移っていきます。
そのころの時期にちょうどふさわしい読書として、言葉の森では問題集読書をすすめています。(つづく)
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言葉の森では、生徒の希望によるオプションで暗唱の自習に取り組んでいます。オプション制にしているのは、家庭での勉強状況に個人差があるからです。
暗唱には、しやすい年齢と、しにくい年齢とがあるようです。
小学校1年生から3年生にかけては、暗唱がすぐできます。この時期が、ちょうど6歳から8歳の日本語脳の形成臨界期とほぼ一致しているところに何らかの理由がありそうです。
小学校6年生あたりから次第に暗唱がしにくくなり、中学生になるとどの子もかなり暗唱に苦労するようになります。
しかし、小学校5、6年生や中学生でもしっかり暗唱ができる子もいるので、学年が上がると暗唱がしにくくなるというのは単に毎日の家庭学習の時間が取れなくなるためかもしれません。
小学校高学年の生徒や中学生以上の生徒が暗唱の学習を続けるためには、早朝の時間10分間を活用する必要があるように思います。
さて、生徒が1週間で300字の文章を暗唱すると、担当の先生が毎週の電話の時間に暗唱チェックをします。300字のチェックで1分ぐらいしかからないので、これはあまり問題がありません。
しかし、1週目、2週目、3週目と300字の暗唱が続いて、4週目にそれまでの文章を全部つなげて900字の暗唱をチェックするときが大変です。
毎日10分の暗唱練習をちゃんとやっている子であれば2、3分で一気に暗唱できますが、ちゃんとやっていない子は途中で止まったり考えたりしてしまいます。すると、担当の先生が暗唱を聞いている時間が長くなってしまうこともあり、その後の指導の時間が短くなってしまいます。
そこで現在、この900字の暗唱については、暗唱力検定のような形で、毎週の授業とは別にチェックする機会を設けることを検討しています。
暗唱力検定は、1ヶ月の間のある期間と時間帯に限って、電話で受け付けるようにする予定です。その時間帯に生徒から事務局に電話が来たら、事務局がその場でチェックをしてもいいですし、また全国の講師で手の空いている人がふりかえ授業のような形でチェックすることもできます。
暗唱力検定のチェックは、時間が3分以内、ミスが3ヶ所以内などと決めておけばスムーズにできます。暗唱力検定に合格した人には、賞状を渡します。
これまでの経験で、半年間ぐらい暗唱の学習をしていると頭の仕組みがよくなるようなので、暗唱力検定に6回合格することを一つの目標としてもらいます。
電話によるチェックなので、ごまかすことができるという問題を心配する人もいるかもしれません。このことについては、保護者にも電話の場所に一緒にいてもらうという方法も取れなくはありませんが、基本的には生徒に対する信頼に任せたいと思います。
この暗唱力検定が軌道に乗れば、毎週の300字のチェックも必ずしも担当の先生がする必要がなくなります。読書の記録と同じように、本人に今の練習状況を確認すればそれで済むようになると思います。
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第二の自習は、読書です。
読書は毎日を読むのがコツです。毎日読むことによって読書の習慣がつきます。
逆に、何日か読まない日が続くと、読まない習慣ができてしまいます。中学生ぐらいになると、本を読む子と読まない子がだんだん分かれてくるのはこのためです。
言葉の森では、以前、読書は毎日50ページ以上(又は小学生の学年の10倍ページ以上)としていました。しかし、そのページだとなかなか読めない子もいたので、ハードルを低くするために、現在は毎日10ページ以上は必ず読むこととしています。
勉強は、時間よりも分量を目標にしたほうが、子供は集中して取り組みます。1時間勉強するという目標にすると、1時間だらだらやるような勉強の仕方になりがちです。しかし、何ページ分勉強するということを目標にすると、早くその目標まで仕上げようと集中して取り組むようになります。
ところが、その目標のページ数が終わったときに、時間がかなり早く済んだとしても、決して追加の勉強はさせずに、最初に決めた目標までの分量で終わりにすることが大事です。
子供が小さくて親のいうことをよく聞くころには、親はつい、目標のページ数が早く終わったときに、「そんなに早く終わるんだったら、これも」と、追加の勉強をさせてしまうことがあります。そういうことが一度でもあると、子供は次からは、集中してやるよりも、時間をだらだらと過ごしてやることを覚えるようになってしまいます。
さて、読む本の基準は、本人の好きな本であれば何でもよいとします。大事なのは、毎日読むことで、毎日好きな本を読んでいるうちに、だんだんと本の選び方がわかってきます。
ただし、絵のスペースの方が字のスペースよりも大きい本は、読むのはもちろんかまいませんが、読書とは呼ばないと決めておきます。例えば、漫画、学習漫画、絵本、図鑑、雑誌などです。なぜかというと、そういう本ばかり読む子は、文章を読むのではなく絵を眺めているだけということも多いからです。
読書とは、文章を通して物事を理解することですから、絵を通して理解するのは、もともとの意味の読書とは考えないということです。
親が、子供にもう少し難しい本を読んでほしいと思うときは、お母さんやお父さんがそういう本を読み聞かせで読んであげるようにします。
読み聞かせも、読書と同じ効果があります。それは、読み聞かせは、文章を通して物事を理解することだからです。子供が自分で読む場合は目から読む文章を通して、読み聞かせの場合は耳から聞く文章を通して理解するということです。
読み聞かせで読んでいると、その本が終わるころに、子供が興味を持って自分で続きを読むということがよくあります。そのためには、読み聞かせの雰囲気をできるだけ楽しいものにすることが大事です。
子供に読書をさせるために、読書の記録をつけたり冊数のグラフをつけたりする方法があります。しかし、そういう方法を使うと、かえってその記録やグラフ自体が目的のようになってしまうことがあります。読書の方法というものは、本の好きな子にとってはわずらわしいものなので、最初のきっかけ作りぐらいにとどめておく方がいいと思います。
先生や親がときどき、子供たちに、「何の本を読んでいる?」「どこまで読んだ?」ということを聞くだけでも、読書をする意欲につながります。
本を読むときに、読み終えたところまで付箋を貼っておくというのはいい方法です。付箋を貼っておくと、外から見てもどこまで読んだのかがわかります。
付箋を貼ることによって、数冊の本を並行して読んでいくことができるようになります。
大人でも子供でも、何かの本を1冊を読んでいる途中で、ほかの本を読んではいけないというような思い込みをしている人がいます。しかし、読書は、何冊もの本を並行して読んでいく方が、ページ数がはかどることが多いのです。
どんなに面白い本でも、同じ本をずっと読んでいると飽きてきます。飽きてきたと思ったら、そこに付箋を貼っていったん終わりにして、別の本を読みます。そのように、次から次へと読んでいくと、1冊の本をずっと続けて読むよりも全体のページ数が増えます。
言葉の森では、今後の読書の自習として、担当の先生が毎週、今読んでいる本の書名とページ数を聞くというような形を取りたいと思っています。
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これからの教育に求められる方向は四つあると思います。
第一は、受験と競争に勝つことを中心とした教育ではなく、本当の実力をつけるための教育を目指すということです。
第二は、外部に委託する他人任せの教育ではなく、家庭や地域を中心とした自分で学ぶ教育を目指すということです。
第三は、成績や得点だけを考えた没価値の教育ではなく、日本の社会に生きるための価値観を持った文化の教育を目指すということです。
第四は、現代の社会に適応するためのエスカレーターに乗る教育ではなく、自主独立の人間として生きる教育を目指すということです。
その中で、最も重要なものが実力をつけるための教育です。
受験という競争に勝つための教育ではなく、生きる実力をつけるための教育を行うには、それに合わせた毎日の自習が必要です。
言葉の森で行っている自習は、現在やや複雑になっているので、今後学年別に自習の内容を整理して、もっとわかりやすく取り組みやすいものにしていきたいと思っています。
現在自習として取り組もうと思っているものは四つあります。
第一は、課題の長文の音読です。これには、読解マラソン集の音読も含みます。
第二は、毎日の10ページ以上の読書です。
第三は、毎日10分程度の暗唱練習です。
第四は、問題集読書をもとにした。四行詩の作成です。
まず、長文音読についてです。
音読は、同じ文章を繰り返し読むというところに意義がありますが、同じ文章を繰り返し読むことを家庭で徹底させるのは、実は難しい面があります。
そこで、音読のできる家庭はそのまま音読を続けていけばいいのですが、毎日の音読を徹底できない場合は、ウェブで同じ文章を繰り返し聴くという仕組みをゲーム的に作っていきたいと思っています。
現在、速聴のページがありますが、これを速聴だけではなく普通のスピードの朗読としても聴けるようににして、その朗読を毎日子供が聴きます。
朗読を聴いている途中で、何かのメロディーが流れるようにするので、その朗読が終わったあとに、そのメロディーが何のメロディだったかを選択してボタンを押すという仕組みです。
このようにすれば、保護者が一緒について音読をチェックするようなことは必要なく、子供が自分で文章を毎日読んでいくことができます。
また、毎日ができない場合でも、1週間のスケジュールを決めておけば、時間のあるときにこの自習をまとめてやっていくこともできます。(つづく)
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夕方の家族のお喋りは、大いに盛り上がります。お父さんは、いま取り組んでいる仕事の話をいろいろしてくれます。お母さんも、よく勉強していて、お父さんの専門分野についていろいろな質問をします。
お母さんも、自分の趣味の仕事を持っているので、その話をすると、今度はお父さんがいろいろな質問をします。もちろん、ここにK君も加わります。夕方のお喋りは、にぎやかな討論会のようでした。
僕は、こんなに面白い話を毎日していれば、テレビやゲームなんていらないなと思いました。
夕飯の食卓は、野菜が盛りだくさんです。ほとんどは、自宅で育てているもののようです。
庭がなくてもベランダや窓ガラスで栽培できる野菜が増えているので、どこの家庭でも、野菜は自宅で作っているようです。
肉類はあまり食べないらしいので、僕が、
「どうして」
と聞くと、
「食べられる動物の身になったら、かわいそうだからだよ」
と、K君は笑いました。未来の社会の人は、他人ばかりにではなく、動物に対しても共感する気持ちを持っているようです。
ちょうど社会全体が、他の人も他の動物も含めて、一つの家族のように相手のことを考えているから、わざわざルールを作ったり取り締まる人を作ったりする必要がないのだと思いました。
僕は、日本の歴史を学んだとき、徳川綱吉が出した「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」を悪法のように教わっていましたが、未来の日本の学校では、綱吉の精神は逆に評価されているということでした。
食事を始めると、窓からリスや小鳥が入ってきました。これらの小動物の中には、ベランダの巣箱で暮らしているものもいるようです。
人間の間にまじって、リスや小鳥がテーブルの上には上がらずにちゃんと横で待っています。
ペットとして飼われているわけではないので、つかまえたり手でさわったりすることはできませんが、手の届くぐらいの近さでみんなにぎやかにえさを食べていました。
近所の家の中には、トンビやフクロウと一緒に住んでいる家もあるようです。
寝る時間になっったので、ベッドに行こうとすると犬がついてきました。ゴンタという名前で、3歳のゴールデンレトリバーです。
K君は、いつも犬と一緒に寝ているようです。
「今日は、君がゴンタと一緒に寝たらいいよ」
と、K君が言いました。面白そうなので、僕は、
「うん、ゴンタおいで」
と言いました。
今日一日いろいろ新しい経験でくたびれたので、僕は、ベッドに入るとすぐに寝てしまったようです。
朝、スースーという音で目が覚めると、僕の目の前に、寝ているゴンタの顔がありました。僕は、ちょっとふざけて犬の真似をして、ゴンタの鼻をペロリとなめました。ゴンタは、ぱちりと目をさましました。(おわり)
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完結ですか~。
終わってしまって、ちょっと寂しいです。
とても好きでした。
ポプラ社あたりから出版してほしいです(笑)。
エズミカレンさん、ありがとうございます。
ふと思いつきで書いているうちに、長くなってしまいました。
でも、なんだか将来ありそうな話でしょう(笑)。
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未来の社会では、子供が学校で勉強するのと同じように、大人もみんな熱心に勉強や習い事をしています。会社が終わると、ほぼ毎日必ず何かの習い事をしてから家に帰ってきます。
未来の社会では、人間が学校を卒業して就職するようになると、すぐにそのような習い事をいくつも始め、そこからだんだん自分の好きな習い事に絞っていき、これと決めたものはそれから10年も20年も続けます。
すると、40歳ぐらいになると、自分がその習い事を教える仕事もできるようになってきます。そこで、みんなそれぞれに工夫して、自分がこれまで身につけたものを組み合わせて教えるので、そこで、新しい習い事の創始者になる人も多いようです。
そうして、勤めていた会社を定年でやめるころになると、もう自分ですっかり新しい仕事を教える準備ができているそうです。
K君のお父さんは、そう教えてくれました。
僕は、昔、中学の社会科の授業で、「日本の経済発展にはこれから内需が必要だ」ということを習いましたが、日本人どうしがお互いに習い事を教えるというのが、未来の新しい内需になっているようでした。
しかも、こういう習い事は、何十年も続けてきているものなので、中には普通の人の及びもつかないような高度な技能を持つ人もいます。そういう人は、人間国宝のような称号が与えられて、4年に1回開かれる文化オリンピックで表彰されるそうです。
僕がいた過去の日本の社会でも、碁や将棋の名人、包丁一本の料理職人、作詞家や作曲家など、自分の持っている技術で生きている人がいましたが、未来の社会では、それがいろいろな分野に広がっています。
中には剣玉名人のような、一見簡単にできそうなものもありますが、それを何十年もきわめている人がいるので、今では高度な芸術的スポーツのようになっているということでした。
昔の日本の社会では、みんなが「欲しい」と思うものは主に「物」でしたから、「物」を買って豊かな生活を送っても、収入は別のところで働いて稼いでこなければなりませんでした。すると、働けなくなると収入がなくなってしまいます。
「物」の社会では、買えば買うほどお金が減ってくるので、みんなはなるべくお金を使わないようにしていました。
しかし、未来の日本の社会では、みんなが「欲しい」と思うものは、「物」よりも自分の「修行」になっています。自分の「修行」は買っているうちに、自分の能力になってきます。すると、今度は、その能力を売ることができるようになります。
このようにして、「修行」の社会では、お金を使えば使うほど自分の能力が増えてくるので、みんながなるべくお金を使うようになっています。貯めておいても自分の能力は増えないからです。
こうして、「物」の消費社会から、「修行」の自己投資社会に世界で最も早く移行した日本の社会は、今では世界一豊かな国になっているということでした。
日本が、世界で初めてこういう修行の社会になったのは、日本人が勉強好きだということが大きな理由のようでした。(つづく)
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未来の社会では、レジに人がいない店もよくあるので、自分で商品のバーコードを読み込んで、表示された金額を払ってくることも多いようです。
「少なめに払っていくなんて人はいないの」
と、僕が聞くと、
「だって、もし自分がお店をやっていて、少なめに払われたら嫌でしょう」
と、K君は当然のように答えました。「もし、自分が相手だったら」という考え方をみんなが自然にしているようです。
警察というのも、とっくの昔になくなっているということでした。悪いことをする人がほとんどいないし、いても、みんなで事情を聞いて対処するので、警察の仕事というのがなくなったそうです。
法律も、常識でわかるくらいのものに簡素化されて、しかも年々減っているようです。
「法律や警察がないなんて、不思議な社会だね」
と、僕が言うと、
「だって、家族の中だってもともとそんなのないじゃない。家族が広がったのが社会だと思えば、不思議なことなんてないさ」
と、K君は言いました。
「こういうのは、世界中で実現しているの」
と、僕が聞くと、これも不思議なことに、こんなふうになっているのは日本だけのようです。
世界のほとんどの国は、まだ警察もあるし法律も複雑で、しかも争いがなかなか絶えません。だから、治安のいい日本の社会を見学しに、毎年世界中の国から視察団がいくつも来るようです。
しかし、なぜ日本だけが、このように正直な人が多く、しかも、他人に対する思いやりのある人が多いのかまだよくわからないようでした。(しかし、その後の研究によると、左脳で感情や自然の音を処理する日本語脳にその秘密があるようだということでした)
家の中に入って、K君としばらくおしゃべりをしているうちに、K君のお父さんやお母さんが帰ってきました。
みんなが集まると、夕方はテレビなどを見ずに、もっぱらみんなでおしゃべりです。
子供が小中学生のころは、父親も母親も残業や転勤がなく、いつも早く帰ることができるそうです。社会のルールでそう決まっているということでした。
子供も、夕方、塾や習い事に通ういうことはありません。そういうのは昼間のうちに行けるからです。
学校は、勉強を教えてもらいに行くところではなく自分で勉強をしに行くところなので、自分で自由に行く日を決めることができます。
特別なことを勉強したり習いたいからという理由で塾や習い事に行く人は、学校の中にそういう場所があるので、そこに行きます。
しかし、子供が自由に何をしてもいいとなると、全体の勉強のバランスがくずれてしまうこともあるので、ときどき勉強全体のコーチのような人が、子供や両親と相談して、数ヶ月のおおまかな勉強のメニューを提案します。子供は、そのメニューを参考にしながら、自分の好きなことを中心に自由に勉強や習い事の予定を組んでいます。
だから、学校は行きたいときに行けばいいのですが、ほとんどの子供は、毎日決まった時間に学校に通います。友達といる方が楽しいし、毎日同じペースで生活した方が楽だからです。
ところで、未来の社会の不思議なところは、子供が学校で勉強しているのと同じように、お父さんやお母さんなどの大人も、みんな熱心に勉強や習い事をしていることです。
実は、これが未来の日本の社会の豊かさを生み出しているひとつの大きな理由なのでした。(つづく)
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