白蝶草(ガウラ)
4月の森リン大賞を発表します。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
森リン点の点数が高い作品であっても、要約の部分が多いものは森リン大賞の対象にはなりません。
それは、要約の部分が多いと、森リンの点数が上がるからです。
4週目の清書は、要約の部分をそのまま書くのでなく、要約を省略するか、自分なりの状況実例にして書いていってください。
なお、対象に選ばれた作品の中で、固有名詞があるものは、匿名にしておきました。
森リン大賞の作品の中のいくつかを紹介します。
▼小5の部
実例も個性的ですが、感想の部分が長く書けているので、考える力があります。
小5以上の生徒のみなさんは、この作文のように、第四段落の感想を長く書く力をつけていってください。
そのために必要なのは、親子の対話と読書です。
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思い出の品
みさ
みなさんは、整理整頓は得意だろうか。私の友達は、みんな掃除が好きなのかどうかは知らないが、少なくとも下手でないのに部屋が汚いよ。とみんなして言う。友達の家でなんどか遊んだことがあるが、全て綺麗なのだ。そんなものを見せられたら自分の家なんか到底見せられないと思う。因みにわかると思うが、私の家庭は「捨てる」ということが苦手だ。もう使わない物だし、価値も無いものなのに可愛いから、珍しいからと何でも取っておいてしまうのだ。私が言えた事じゃないが、特に姉の部屋は散らかっている。よくこんなところで生活できたものだと毎度、姉の部屋を見るたびに思っている。
私も、「捨てる」ということが苦手だ。そのせいで引き出しがまるで会場のように混雑している。母はいつも
「バーゲンセールみたいに混んでいるね。」
と冗談めかしていう。しかし全然笑いごとではない。最近は、意を決して要らないものを処分している為、結構綺麗になった。要らない物を捨てるだけで家は新品の様に綺麗になったことに少し驚いている。母は、床に物を置かない方がいいのよといつも言っていた。私は半信半疑だったが、それが本当だったので、疑っていたことを少し申し訳なく思った。
比較的私達より整理整頓が上手な私の母にも捨てられないものがあるそうだ。それは、この話にも関連している、くずかごのことだ。母が結婚した当時、私のお父さんの方のおばあちゃんに良かったら使ってくれないと貰ったのが、今あるくずかごだそうだ。母は
「結構使ったし少し見た目もイマイチだし可愛いのに買い替えたいね。」
とだいぶ前から話しているが、一向に換えようとしない。母は、忘れているのだろうか。やはり、くずかごはどんなに汚くても気になりもしないものなのかもしれない。それに、家具屋にいってもくずかごは他の魅力的な家具にセンターを奪われ、端っこの目立たない所にちょこんと座っている。
私は、捨てる決心が大切なことがよく分かった。けれどまだ必要ではないはずなのに捨てられない物がたくさんある。少し言い訳っぽいが、多分その物の中には素敵な思い出が残っているからだと私は勝手に思っている。だから要らないからといって捨ててしまうのではなく少しは思い出を取って置いて欲しい。私の勝手な妄想だが、将来大人になってから思い出の品が無いのは少し寂しいと思う。他の思い出のとり方も色々あるが、一個でもいいから一番の思い出の品を取って置いて欲しい。
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▼中3の部
実例が個性的です。
また、自分なりに調べた社会実例も入れているので、題材の幅がひろがっています。
結びの意見も、前向きです。
意見は、このように自分の問題として考えていくことが大事です。
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時間に操られる自分
なおや
紀元前3000年前から時計の歴史は始まる。この日時計が発明されてから、人類は時間とともに生きている。今、現代人は時間に追い立てられるように生活しているが自然と調和している人たちは、時間を意識することなく生活している。また、今現在この世では、水原通訳が保釈金約400万円で保釈されるなど、金で物事は解決できる方向にある。だが金で買える幸せには限界がある。私は時間にとらわれない生き方をしたい。
第一の方法としてあまり時計を見ないように常に心がけることだ。僕はあまり時間に厳格ではない。そのため、塾帰りの電車で予定の時刻に間に合わなくなってしまうことが度々ある。実際少し、時計を確認していなかった自分を恨んでしまうが過去に戻ることは僕でさえもできない芸当である。しかし、次の電車で素敵な女性が乗っていて、そのとなりに座ることができれば、素敵なひとときを10分間過ごせる。そして、その日は必ずハッピーな夢を見られる。確かに時計を見ずに生活するのは現代人にとっては無理な話かもしれない。だが、偶然を装い、一期一会の素敵な出会いを大切にしたい。また、家でも僕は時計を一切見ない。そのため、夜は寝るのが遅くなってしまうのだが比較的まったりと過ごせる。反対に朝は友達との集合時間に間に合わなくなり、朝ごはんを残してしまうこともたまにある。その都度、母を苛立たせる。時計を見ない生活スタイルを取り入れれば、時間を意識する必要がなくなり、何かやらなくてはいけないことなど、自分に降りかかる問題に慎重に対応する事ができるだろう。
第二の方法として時間に対してもう少しルーズに接していくことだ。僕の祖父は田舎で農業を営んでいるが時間を意識する概念がないように思える。朝、6時に起きるのではなく朝頃に起き、12時に昼食を食べるのではなく昼頃に食べ、夕方頃に仕事を引き上げて一日が終わるのだ。彼ら、田舎者は素肌で自身の時間基準を作っているのだ。すべての国が時間にルーズだという訳では無いがよくインドやイタリアは約束の時間を守らないということで有名だと思う。特にインドは人口が多いのもあり、電車が遅れ、「時間通りにいかないのが当たり前」という感覚を持つ人が多いのだそうだ。地中海に住むとある老人は手帳に日記を記しているのだそうだが、その手帳は年数が10年前のものだったそうだ。彼にとって、グリニッジ標準時は意義を持たず、彼自身が時間の基準なのだろう。このことから、様々な解釈ができると思うのだが、この老人の時間を超越した考え方に深く感動してしまった。海外の人は良い意味でも悪い意味でも時間にルーズなのだ。アメリカの偉人、ベンジャミン・フランクリンは卓越した外交交渉能力を備えた政治家でもあり、雷の中に電気があるのを発見した科学者でもある。しかし、彼はこの偉大な生涯に似合わず、仕事に関して会食のとき以外はスケジュール通りにこなすことは一切なかったようだ。僕はベンジャミン・フランクリンのように、社会に調和しながら生きていきたい。
確かに、時間とともに生きることは、ことをスムーズに進ませたり、時間に対して「分」という基準が定まっていると相手との誤解が減る。しかし、「悪書を読まないことは、良書を読むための最初の条件である。」というように、人は時間を的確に読むことで本来の自分の生き方を忘れてしまっているのではないだろうか。今、わたしたちの住む世界では至るとこに時計が電子機器に内蔵されている。私達はテレビを見ていると隅に表示されている時計から視線を感じてしまってならない。この社会で分単位の世界から秒単位の世界になった時、リラックスとはなんなんだろうと疑問を問うようになってしまう未来が果たしてきてしまうのではないだろうか。したがって僕は時間に支配されることなく自分自身が主体となってこの世界を堪能していきたい
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大学生や社会人になった元生徒の子供たちが、自分が中学生だったころの作文を読んで、「すごくレベルの高いことを書いていたんですね」と言うことがよくあります。 うーん。 それだけ、大学生になってから、あまり進歩していなかったのかなあ(笑)。
ネズミモチ
今、学校でやっている勉強の中身は、すべて答えがあります。
答えがある勉強でないと、先生が教えられないからです。
だから、AI時代には、先生という仕事はなくなると思います。
残るのは、教える先生ではなく、作文や創造発表やプログラミングなど、生徒どうしの発表を司会する役割としての先生です。
今の勉強の答えは、参考書や問題集の中にすべて用意されています。
教科書だけは、先生が教えることを前提に作られているため、答えが用意されていません。
学校の宿題なども、答えが用意されていないことが多いのですが、答えの用意されている勉強を中心にやっていくことが大事です。
一方、答えのない勉強もあります。
人生は、そもそも答えがありません。
その答えのない勉強に取り組む時間をもつことが大事です。
しかし、答えのない時間は、惰性に流されることがあります。
そのときの解決策のひとつは、とにかく本を読むことです。
本を読むことは、ある種の作業なので、すぐに取り組めます。
そして、自分の考えが深まります。
ただし、その本は、物語文の娯楽の本よりも、説明文の考える本であることが大事です。
読書の時間を確保しないと、人間は、空いている時間に、YouTubeを見たり、LINEでお喋りしたりすることになりがちです。
人間には息抜きの時間が必要なので、娯楽の時間も大事です。
しかし、娯楽の時間と勉強の時間だけでは、何のために生きているのかわかりません。
本当は、答えのない勉強をするために、考える時間が必要なのです。
答えのない時間を確保するためのひとつの方法が、散歩です。
歩くという動作は、人間の身体の最も自然な使い方です。
人間には、角も、牙も、走る速さも、大きい体もありません。
その人間が何十万年か何百年前も生き続けてきたのは、歩くことにくたびれなかったからです。
狩猟民族の場合、弁当を持って歩き続ければ、どんな獲物も追い詰めることができます。
シートン動物記にある
野生の雄ヒツジ クラッグの話はそのひとつの例です。
また、人間は、どんな遠くにも歩いて行くことができます。
人類が、地球上のどこにも広がったのは、いつまでも歩くことができたからです。
だから、散歩は、人間にとって本質的な運動です。
散歩しているときは、余計なことは入ってきません。
だから、考えることがある場合は、散歩によって考えが深まることが多いのです。
ニーチェが、「ツァラストラはかく語りき」の構想を描いたのは、近くの大きい湖の周りを一周しているときでした。
歩いていると、YouTubeを見たり、LINEの返信を気にしたりすることなく、自分の考えだけに集中できます。
今の学校の勉強は、退屈なことが多いです。
その退屈な勉強に慣れて、勉強生活に適応する必要はありません。
勉強に飽きたら、近所を一回り歩いてくることです。
できるだけ信号のないところで、考えずに歩けるところがいいです。
そうして、自分が本当に考えたいことを考える時間を持つのです。