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余白
アジサイ の広場
潤之介 かな 中1
 話し上手の人がいる。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばない。そのこと
を私なりに考えてみると、饒舌の人は、とかく「間」をとることに気が回らな
かったり、「間」の必要を
感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あ
るいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている違いがあるように思う
。余韻とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわってい
るように思われる。思わせぶりな「間」は、いい余韻にも余情にもならないだ
ろう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそ
 
 私は余白は必要だと思う。その理由の一つは余白がないと分かりにくいと言
うことである。ただ単にぺらぺら喋るだけだと、聞くほうはどれが話の中心だ
かよくわかんないし、言っている方も、「自分は何でこの話をしているんだろ
う?」と、思ったりするかもしれない。このようにすきまもなく力を入れた状
態は、、かえって効果的でない。
 
 もう一つの理由は、余白があると分かりやすいと言うことだ。余白のあるし
ゃべり方をすると、聞く方も話の中心が分かるし、喋っている方も、自分が何
を伝えたいか分かるので、聞いてる方も飽きないし、話してる方も飽きないか
ら、喋るときはすこし「間」を置くことによって、面白く、そしてわかりやす
い話しになるのである。
 
 確かにぎっしりと詰まっていると、その中からどれが中心なのか探す楽しみ
があるが、やはり、ぎっしり詰まっているのではなくて、余白があった方が、
その絵の中心が分かりやすくなり誰にでも親しみやすい絵になると思うので、
余白は必要だと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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