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何はともあれ
イチゴの広場
くみこさく高1
      何はともあれ     
 
                 磯野久美子
 
 クラシックの真髄とは、長い曲を全身耳となって聞き通すときに、現象的な
快楽にとどまらぬ、それを超えた「作品」というドラマテイックな体験できる
ところにある。細部が全体に劣るわけではないが、曲全体の中では、細部はそ
れだけで存在するより以上の意味を持つことができる。しかし、コマーシャル
の15秒のクラシック音楽では、鳴っているのは確かにその一部でも、その向
こうに作品全体が見えない、むしろ作品から切り離された、それ自体で味わわ
れる個的で快楽的な現象である。
 
 私はあまりクラシック音楽というものは聞かないので、この筆者の言ってい
る「クラシックは長い曲を集中して聞くときにその本質に触れることができる
。」という考えはあまり理解できない。というのも、コマーシャルを聞いてい
ても、よくわからないと思うものや、これはなかなかいいと思えるものがあり
、私なりに理解できると思うからである。例えば有名なパッヘルベルの「カノ
ン」などは、駅などで流れているのをちょっと耳にしただけでも「いい曲だな
あ」と思う。ワンフレーズでも、いい曲はいい曲としてちゃんと認識できるの
ではないだろうか。
 
 しかし、私はPOPやHIPHOPなどが好きで、よく聞くのだが、もしそ
のような音楽がコマーシャルで流れ、それを見た人に「HIPHOPってこん
な音楽なんだ。」と思われてしまったら、それはおもしろくない。もちろんそ
の音楽にはもっと深い部分や時間をかけて味わうべきところがあるわけであり
、15秒程度ではとうてい味わうことのできない、もしかするとその音楽の中
で最も重要であるかも知れない部分が隠されているのである。このような自分
の好きな音楽に当てはめてみると、筆者がクラシックのことにおいて言ってい
ることも分かる気がする。
 
 このような問題は音楽だけでなく、他のことでも当てはまることが多いので
はないかと思う。芸術などは、このようなことが起こりやすいよい例である。
芸術は、その作者が自分の伝えたいこと、感じたことを自分の表現したい形で
書くものであるから、見る人にとっては表面的にはわかりにくいものである。
それを、ちょっとかじっただけのような人が、いいとか悪いとか批判している
のだから、作者やその本質を十分に理解している人が不満に思うのも無理はな
い。
 
 こうして考えてみると、やはり何かを見たり聞いたりするとき、部分や見か
けだけではその本質に触れることはできない、ということが理解できる。何か
が部分部分の集合として成り立っているとき、それがどんなものであろうと、
全体を見ることなしにその何かを把握することはできない。部分部分があって
こその全体ではあるが、同時に全体を無視して細部に踏み込んでいくことは危
険なことである。「大切なのは、健康らしい外見ではなく、健康そのものであ
る。」という言葉もあるように、見かけや容易に感じ取れるものだけにまどわ
されてはならない。大切なのはその本質であり、それを探るためには、最初に
ゆっくりと全体を見ることが必要なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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